セクレタリーの“ヒショヒショ話”

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第2回:セクレタリーになったけれど

 私が若かった頃、日本で英語を使ってできる仕事は限られていた。新卒で関西経済連合会(関経連)の企画部に入局。経済誌の編集と広告を担当していた。事務局の人びとは、仲良く雰囲気も良くて、企画部の仕事はやりがいのあるものだったけれど、日々の仕事で英語を使う機会は皆無で、英語から遠ざかって行く生活が、オーストラリアでの経験が日に日に消えていくようで辛かった。

 関経連の仕事が軌道に乗ってきた3年目のある日、外資系企業の大阪オフィス開設のニュースを聞いた。エグゼクティブ・セクレタリー(役員秘書)を募集するという。私は、この会社のエグゼクティブ・セクレタリーが一体どういうものなのかも知らないまま、応募書類を送った。一次選考、二次選考、業務能力テストの後、何と秘書の経験がないまま、私はエグゼクティブ・セクレタリーとして雇われ、仕事が始まったのであった。

 米国ニューヨークが本社のビジネス・コンサルティング会社。オフィスは大阪で最初にできたインテリジェント・ビルにあり、オフィスの内装もかなり費用が掛けられていて、各役員室の前にセクレタリーのブースがあった。当時の最新式TOSHIBAラップトップが全デスクに配置されている様子は驚きであった。

 このように職場環境には恵まれていたが、実際の仕事は大変だった。役員の秘書が、日本支社(東京と大阪を合わせて)には14人程いて、会長秘書を筆頭に「セクレタリー番付」のようなものがあった。私はその年に役員になったばかりの上司の秘書で、秘書の中でも年齢が一番若かった。何が何だか分からない、秘書1年生の私。社内には個人主義のような雰囲気が徹底していて、誰も何も教えてくれなかった。

 だけど、何か良くないことがあると、すぐにあちこちから「お叱り」があった。上司も役員になりたてで、秘書の使い方が分からないようだった。これはもう何でも経験して学ぶしかないと思った。会社名のステイタスもあり、給料が高く、人びとのプライドも高い環境での仕事、毎日が戦いのような日々だった。

 それから何年か経ち、大阪支社で一番古いエグゼクティブ・セクレタリーになった頃、私は仕事を辞めてオーストラリアに行くことを決めていた。勤務最終日に上司と支社長に言った。「お世話になりました。何もかもが勉強でした。でも、1つ分かったことは、私にはセクレタリーの仕事は合っていないということでした」私はオフィスを後にシドニーに向かった。

著者

ミッチェル三枝子

ミッチェル三枝子

高校時代に交換留学生として来豪。関西経済連合会、マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社に勤務。1992年よりシドニーに移住。KDDIオーストラリア及びJTBオーストラリアで社長秘書として15年間従事。2010年からオーストラリア連邦政府金融庁(APRA)で役員秘書として勤務し、現在に至る

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