第3回:走り続けて
走り続けて今日までやって来た。毎日働いて、働いて、考える暇もなくずっと働き続けてきた。
セクレタリーになりたての頃は、自分がこの職に合っているのかと問い続け、その答えを得るまでは絶対に続けようと思った。働きすぎてコンプレックスばかりが増えた20代、30歳を前に自分のやりたいことをやれるのは今しかないと焦っていた。
結果、もう一度オーストラリアに住んで自分を見つめ直すことを決心。外資系企業でのセクレタリーの仕事は辞めた。高給入、ハイステイタスの生活を捨てることに、何の未練もなかった。自分には合わない仕事だと確信し、その旨を上司と支社長に告げてシドニーにやって来た。
シドニーに来た翌年に結婚、その翌年には娘が生まれた。娘が2歳になる前に主人の会社が倒産、乳飲み子を抱えて再度働かなければならない状態になってしまった。就職斡旋エージェントに登録に行くと、すぐにセクレタリーの仕事を探してくれた。日系の大きな通信会社だった。私は、あれほどセクレタリーの仕事は二度としないと思っていたのが、何とその時、日本でのセクレタリー経験が我が家の生計を救ってくれたのであった。
それからの15年間、日系の会社で社長秘書の仕事を続けた。働かないと食べていけない状況であったが、実際仕事が楽しかった。
運命というのは不思議なものである。自分の意志でなく、働かねばならない状況があって、仕事に行く。でもそれで、多くの人に出会い、人生を学ぶ。再度始めたセクレタリーの仕事に、 私はこれとないやりがいを感じ、これぞ自分の天職とまで思った。育児と仕事で、いつもギリギリの毎日だったが、充実していて仕事が楽しくて仕方がなかった。
そして今、オーストラリア連邦政府金融庁(APRA)でのセクレタリーの仕事も13年目を迎える。 気が付くともう30年近く、走り続けてきた毎日。そろそろセクレタリーとしてひと通りの経験をしてきたので、このあたりで次は何をしようかと考えるのも良いのかも。
著者
ミッチェル三枝子
高校時代に交換留学生として来豪。関西経済連合会、マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社に勤務。1992年よりシドニーに移住。KDDIオーストラリア及びJTBオーストラリアで社長秘書として15年間従事。2010年からオーストラリア連邦政府金融庁(APRA)で役員秘書として勤務し、現在に至る