人気ラジオDJ・作家 ロバート・ハリス・インタビュー

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日豪プレス40周年記念特別インタビューロバート・ハリス
シドニーでの時代と夢の旅路

ⓒJunya Ikeda

人生の長きにわたり旅人としてボヘミアンに生き、その独自の生き方や世界観が世代を問わず多くの人びとから厚く支持されている人気作家・ラジオDJのロバート・ハリス氏。現在日本で活躍する同氏は、1973年から89年にわたりオーストラリアに滞在、シドニーで街のアイコン的存在のブックショップを経営するなど街の至る所で名を知られる存在だったという。そして、そのシドニーで過ごした時代の中、かつて本紙に、ある「夢」を語っていたのだった。その夢の軌跡を中心に、シドニーの社会の変化や現在オーストラリアで暮らす若い世代に向けてのメッセージなど広く話を伺った。インタビュー=山内亮治、写真=池田旬也

シドニーでの16年と街のアイコン“EXILES”

――1973年から89年までの16年間にわたりオーストラリアに滞在されていたと伺いました。その間のシドニーという街の変化はどのようなものでしたか?

1973年にダーウィンに渡り、その後シドニーに住み始めたのはちょうどオペラ・ハウスが建設されたばかりのころでした。シドニーに移り住んだ当初はグリーブに住んでいて、その辺りの地域はまだファンキーな雰囲気がありましたが、シドニーの街そのものはすごく保守的で白豪主義的な雰囲気が強かった印象があります。文化に関しても、若者文化はまだあまりなく、ゲイ文化やボヘミアン文化も花開いておらず「街は奇麗だけどつまらない所だな」って思いましたね。

シドニーに住んでしばらくして街の様子がだんだん分かってきた78年に画廊を兼ねたブックショップ「EXILES」をダーリングハーストにオープンさせました。そのころからシドニーの若者文化やサブ・カルチャー、ゲイ・カルチャーが花開いていったんです。自分はシドニーに住み始める以前の69年にアメリカに留学していて、当時のアメリカは勢いがしぼみかけていたもののヒッピー文化が花開いていた時期だったんです。そのため、いろいろなものを経験した自分が新たに文化の夜明けを経験できたことはすごく幸運なことだったと感じているんです。そして、ブックショップはその新たに花開いていく文化の中心的な場所にありました。また、時を同じくしてパディントン・マーケットが始まるなど、ダーリングハースト周辺は栄えていきました。

――ブックショップを経営されていた80年にワーキング・ホリデー制度が始まりました。その前後の日本人コミュニティーの様子はどうでしたか?

EXLIESで毎週日曜日に開かれた詩の朗読会の風景。有名・無名にかかわらずアーティストやパフォーマーが集まる店は、街のアイコン的存在となった(Photo: JohnTrater、Poet: Dorothy Hewett)
EXLIESで毎週日曜日に開かれた詩の朗読会の風景。有名・無名にかかわらずアーティストやパフォーマーが集まる店は、街のアイコン的存在となった(Photo: JohnTrater、Poet: Dorothy Hewett)

73年にオーストラリアに渡りましたが、70年代の最初はシドニーでも日本人はすごく少なかったです。フレンチズ・フォレストの辺りに商社マンの家族や大使館関係の日本人が住んでいましたが、彼らは自分のような風来坊とは全く違う環境の人たちで、フレンチズ・フォレストの街自体にも行かなかったので日本人と触れ合う機会はほとんどありませんでした。街中で日本人に会うとしても留学生くらいでしたね。シドニーにいる日本人の数は本当に少なかったです。

また、シドニーに住み始めてから最初の5年くらいは英語しか話さなかったので、それも日本人との接触がなかった理由かもしれませんね。日本人との触れ合いがあまりにもなかったために、ある日付き合い始めたばかりの彼女の家に初めて行った時、彼女の家の大きな鏡に映った自分を「アジア人の泥棒がいる」と思ってしまうほど自分自身が日本人ということを忘れていました。

ワーキング・ホリデー制度が始まってからは少し状況が変わりました。キングス・クロスにあった日本の居酒屋に食事に行った際に、ワーキング・ホリデーで来た日本人の若者が暗い顔をしながら店にある漫画を読んでいた光景を覚えていますね。今はもう違うと思いますが、ワーキング・ホリデー制度が始まった当初、来豪する若者たちには日本の大学や社会に適応できずオーストラリアに来た、または来ざるを得なくなったといった変な負い目のようなものがあり、まるで海外に来ること自体が島流しであるというような風潮がありました。ただ、そういう暗い若者がいた一方で面白い日本人もいて、彼らはブックショップに毎日来るようになり良い仲間になっていきました。

――日本人も来ていたということですが、新しい文化が花開いていたシドニーの中心的な場所にあったブックショップにはどのような人が来ていましたか?

自分自身が風来坊だったので類は友を呼ぶというように、お客さんは変なやつばっかりだったんですよ。ボヘミアンなアンダーグラウンドのダンサーやパフォーマンス・アーティスト、ブックショップは画廊も兼ねており個展も開かれていたので有名・無名にかかわらず写真家や詩人といったアーティストもたくさん来てましたね。お店では、詩の朗読会が毎週日曜日に開かれていて、朗読会になると参加者はござの上にあぐら座りをして詩を読んだり聞いたりしていたんです。自分はそういう街のサロンを作りたかったんです。

ⓒJunya Ikeda
ⓒJunya Ikeda

面白いエピソードとしては、ブックショップにバンドの「ポリス」が来店したことがありましたね。その時は、ドラッグ・ディーラーをしていた詩人と空き巣をしていた詩人という何とも癖のある2人と自分で「過去のやばかった話」みたいなことをしながら2階の画廊で盛り上がっていました。すると、下からアシスタントの女の子が「“ポリス”が来てるわよー」って叫ぶんです。その瞬間、そこにいた自分を含めた全員が逃げてしまい、自分も悪いことをしていたわけではないのになぜか自分の部屋に逃げ込んでしまって30分くらい静かにしていました。そうしたら、ふと「なんで自分は隠れているんだろう」と思い部屋を出て書店に降りていくと、その子が「どこに行ってたの?」って聞くんですよ。「警察が来たんだろ?」と言うと「違うわよ、スティングとスチュワート・コープランド、“ポリス”のメンバーがあなたを訪ねて来たのよ!」って言うんです。事の経緯を聞いてみると、来豪した彼らがシドニーでどこか面白い店はないかとコーディネーターに尋ねたところ、「エグザイルス・ブックショップという店に進(ロバート・ハリス)という面白い日本人がいるから会いに行きなよ」と言われ来店したようなんですね。今思えば、バンド名を変えろって話ですよね(笑)。

――今のシドニーにはそういった街のアイコンと呼べる個性豊かなサロンのようなお店はもうないかもしれませんね。

4、5年前にシドニーに訪れた際、ニュータウンにそのお店のような場所があると聞いて街に行ってみました。カフェ文化があり、確かに昔のダーリングハーストのような雰囲気でしたが、かつての自分のブックショップのような店は結局見つかりませんでしたね。

――シドニーは均質的な街になってしまったという印象ですか?

今のシドニーには昔の面影がずいぶん少なくなり、それが寂しいなとシドニーに訪れた際に感じたんです。でも、「昔は良かったな」って過去を懐かしむようなことは嫌いなので、その雰囲気には浸りたくありませんでしたね。自分がいたころのシドニーは、例えばビクトリア・ストリートにある有名なカフェに行くと、イタリア人のおじさん連中に混じってパンクの連中や詩人や作家、大学教授といった多様な人種がいました。そういう場所に気軽に1人で行って2時間、3時間と話し込んでしまうなんていうこともありました。楽しい思い出ですね。本当に面白いコミュニティーが街の中に形成されていて、そのコミュニティーの楽しさを味わえる場所はオーストラリアに限らず日本にもないかもしれないですね。

シドニーで語った夢

ⓒJunya Ikeda
ⓒJunya Ikeda

――実は1982年2月号で一度だけ本紙のインタビューを受け、その中で「小説家になる」という夢を語られていますね。

そうみたいですね。自分は大学生のころから小説家になることを目指していましたが、インタビューを受けた当時はなかなか作品が書けなかったんです。何を書いて良いか分からず、書くネタがないと思っていたんでしょう。

大学時代も面白いことはたくさんしていたので、今考えればそれらも小説を書く上でのネタになったのでしょうが、大学時代にはヘルマン・ヘッセやアルチュール・ランボー、アーネスト・ヘミングウェイといったすごい作家の本ばかりを読み漁っていたため、自分はもっとボヘミアンな生活を送らないといけない、冒険も恋もたくさんしないといけないと、振り返ってみると自分自身に多くを求めすぎてハードルを上げてしまっていたんです。

また、シドニーに渡る前の東京での破天荒な生活の影響からか精神的に落ち込み鬱になってしまっていた状況も小説を書けなかった理由だと思いますね。小説が書けないフラストレーションに自分が精神的に落ち込んでしまったという事実が重なり、その状況を何とかしようと日本を飛び出し旅に出たんです。旅に出てからも落ち込んでいるので本を書きたいなんて一切思いませんでした。自分の中心にあった夢は英語で文章を書く小説家なりたいということだったのですが、小説を書こうとして書けなかったら自分からは何もなくなってしまうと考えると怖くなり、その夢はオーストラリアに来る前に一度自分の中で封印しました。そして、小説を書くためのネタが自分の中の引き出しにたくさんできたら小説家を目指そうと決めたんです。そして、シドニーに住み始めてからは、セラピストや大手書店の店員になったりといろいろな経験を重ねていきました。

自分の夢は一度封印したつもりでしたが、自分が経営していたブックショップには作家や詩人といった日頃からアウトプットをしていた人たちがたくさん来ていて、彼らが集まると仲間同士で出版の話をし始めるんですよ。そうすると、1人だけ蚊帳の外みたいに感じて「俺も書きたいのにな」って悔しかったのを覚えていますね。自分たちの世界を持っている彼らが羨ましくて、本を書きたい人間なのに本を売る側に回ってしまった自分が歯がゆかったんです。

ただ、その当時も少しずつですが文章を書いていました。もう無くしてしまったのですが、5ページくらいのブックショップのニュース・レターを制作したことがあり、そこに英語で自分のそれまでの人生や夢、ブックショップでの日々などを書き綴ったんです。それをいろいろな人に渡すと「お前もっと書けよ」って薦められるくらい評判が良かったんです。あとは、時々映画の脚本を書いたりもしましたが、小説を書くことはなく、頑張って書き始めたものの「やっぱりだめだ、封印しよう」と途中で断念するということを繰り返していましたね。

――1997年に自伝『エグザイルス~放浪者たち』(以下、『エグザイルス』)を出版し作家としてデビューされました。そこに至るまでも小説への挑戦と同じく大変だったのでしょうか?

自伝を書き始める前、シドニーから香港へ渡り、そこで映画製作に関わった後に日本に帰国しました。ちょうどバブルが崩壊し始めたくらいの時期でした。その時、日本と海外の合作映画のアドバイザーや脚本の仕事をしていたのですが、バブル崩壊の影響で仕事がなくなり一時期失業して実家に転がり込んでいました。

そうしていると、開局したばかりの東京のラジオ局「J-WAVE」から深夜番組の仕事の話が来て、2時間の番組の中で好きな話をして良いということになったんです。今では考えられませんが、ブックショップや旅、ガールフレンドまで自分が好きなあらゆることを話しました。その生活も楽しみながら5年くらいが経ったころ、あるフリーの編集者から「ハリスさんのファンで、ハリスさんの話をいつも面白いと思って聞いているので、自伝を書いてみませんか」と話を切り出されました。

一度、失業していた時にも自伝を英語で書き始めたことがあったのですが、締め切りもなければ出版社との契約もなかったので結果的に書けなくなっていました。締め切りや契約はやはりモチベーションになりますから、話を受けた時に自伝を書くことを決めました。ただ、その編集者からの依頼は「日本語で書いて欲しい」ということで、それまで日本語で文章を書いたことがなかったので困りました。そこで少し時間が欲しいとお願いし、その当時の現代文学、例えば村上春樹や村上龍、山田詠美などを読み込んだんです。それらを読んで「こういう書き方をするのか」と研究し、自分も書けなくはなさそうだなと思ったので、書き始めてみたんです。

ただ、かなり時間が掛かりました。そんな中、今の僕の妻が手伝ってくれることになったんです。彼女は、アパレル関係の仕事でカタログの文章を書いたりしていたので文章力があり語彙も豊富でした。彼女は毎日、数ページほどのミミズがのたくったような平仮名だらけの自分の原稿を読んでくれました。その当時は、パソコンもありませんでしたから、手書きの原稿を彼女はワープロで打ち直してくれて、「ここは英語のような文章になっているから書き直した方が良い」「こういう言い回しは日本語にないよ」などと編集してくれたんですよ。一番身近な人が良き担当編集者になってくれたということですね。

しかし、自伝を執筆する中で一番問題だったのは「弟の死」について書かなければいけないところでした。そのことに触れると未だに苦しくて仕方ないのですが、弟の死を書こうとすると苦しくてどうしても書けなくなってしまい筆を置いてしまったんです。自伝の執筆は1年くらい書いたところで一度断念しました。

――執筆を断念されて、そこからどうやって出版までたどり着いたのですか?

執筆を断念してしばらく経ったころ、違う出版社の若い編集者の方が「ハリスさんの自伝を写真付きで雑誌に掲載したい」と新しいオファーを持ってきたんです。自分が話をして別の執筆者が書くというスタイルを取り、結果的に連載の形で雑誌に掲載されたのですが、文章は確かにうまいものの自分の文章ではないという印象が強く残り、出来に納得できませんでした。

そこから、もう一度書きたいという意欲が湧いてきて、たまたまその連載を読んでいた講談社の編集者が「ハリスさん、もう一度書きませんか」と話をくれて、そこで中断したところからまた書き始めたんです。その後の執筆で弟の死の箇所も何とか乗り越えることができ、書き切ることができたんです。しかし、自伝を全て書き終えたところで編集者の方が「ハリスさんはラジオのDJでタレントですし、作家としてはまだ新人なので、作品の完成に当たってはゴースト・ライターを付けます」と話すんです。「良いですよ」と快諾したのですが、そのゴースト・ライターが本当の職人のような方で自分のようなボヘミアン色が全くない人でした。書き上がった原稿は、自分でも全くつまらないと思えるものになってしまっていたんです。

妻に「これどう思う?」と相談したところ、「これは担当編集者が元の原稿をしっかり読んでないから、ゴースト・ライターに指示が伝わっていない」と怒ってしまい、その編集者を電話で呼び出したんです。そして「うちの旦那のオリジナルを読んでよ!」と怒ったら、その編集者の方も「確かにハリスさんのオリジナルの方が良いですね」と納得し、オリジナル版で出版しましょうということになり、そうして晴れて作家としてデビューすることになったんです。

――作家デビューをしてからのご自身をめぐる変化はどういったものでしたか?

出版業界というのは面白いものだと思いましたね。本が刷り上がった時に、講談社の高名な方に、出版記念として六本木の焼き肉店に招待してもらえたんです。

その後、初版2万部だったデビュー作は1週間で増版が掛かりました。そのタイミングで最初のサイン会が六本木の書店で開催されました。自分とマネージャーが西麻布からサイン会場まで向かっている途中、麻布警察署辺りから人が並んでいるのに気が付いて「何かイベントでもあるのかな」と思っていたら、実はその列が自分のサイン会に並んでいる人たちのものだったんです。150人くらい並んでいましたね。

そのころは、J-WAVEで午後の番組を担当していたので、番組のファンの方がたくさん並んでくれていました。彼ら1人ひとりと話や写真撮影をしながらサインに応じていると結果的にサインを終えるのに3時間くらい掛かってしまいました。そのような神対応をしたらまた本が売れましてね、そうすると面白いもので1週間後に同じ出版社の方が西麻布の有名なイタリア料理店で最初の焼き肉屋の3~4倍くらい高いお店に招待してくれたんです。そして「先生、これからもよろしくお願いします!」って急に先生呼ばわりされ、最初は電車で帰っていたのにその時はハイヤーで横浜の自宅まで送ってくれるなど、対応が分かりやすく変わりましたね。このデビューの勢いで今では18冊まで著作を増やすことができています。

――シドニーで夢を語られていた時、18冊も本を出版する作家になる未来は想像できなかったのではないですか?

1982年2月号の日豪プレス本紙に掲載されたハリス氏のインタビュー記事。記事終盤「将来は小説家を目指しています」の一言が時を経て現実のものとなった
1982年2月号の日豪プレス本紙に掲載されたハリス氏のインタビュー記事。記事終盤「将来は小説家を目指しています」の一言が時を経て現実のものとなった

全然できませんでしたね。過去に日豪プレスのインタビューを受けた際に自分は「小説家になりたい」とお話をしました。ただ、その後、結果的には「小説家」ではなく「作家」となったわけです。小説は『地図の無い国から』という連作小説を1冊出しましたが、個人的には出来に満足していたものの、他の著作に比べあまり売れませんでした。それから、しばらくはフィクションを封印することにしたんです。

何冊も著作を重ねる中、3年前くらいに小説の執筆に必要な筋肉は付いたと思ったので、そこから出版社の契約などと関係なく自分の時間で長編小説の執筆に取り掛かったんです。そして、2年半くらいの時間を掛け今年35万字の長編小説を書き終えました。出版はまだこれからですが、作家人生20年目にやっと小説家にたどり着けたと思っています。過去に語った夢が実現したことになりますね。

――小説家にたどり着いた今、シドニーで夢を持ちながらブックショップを経営していた過去の自分にかけてあげたい言葉などありますか?

「そのまま頑張れよ」ですね。シドニーでブックショップを経営していた当時は、すごく忙しい生活でしたが、その反面よく遊び、エネルギッシュな毎日を送っていました。女の子の出入りも激しくワイルドな生活でしたね(笑)。

また、ブックショップを経営しながらワイルドな生活を送る中で、来店する人たちの先にはいろいろな世界があると知り、その世界の全てを行き来したいと思ったんです。そして、ダブル・ベイにあるお金持ちたちのコミュニティーやアーティストたちの世界に入っていったり、大学教授の書斎で文学を語り合ったりと、実際にいろいろな世界に入って行きました。もちろんアンダーグラウンドの世界にも入って行きましたし、人生経験としてとにかく多種多様な世界を経験しました。作家になった今振り返ってみて、その後の成功に至るきっかけとなった場所でしたね。ただ、自分にとって唯一書けないのが「サラリーマン」の世界ですね。そういう働き方をしたことがないので、彼らが何をしているか分からなくて。いくら『島耕作』を読んでも理解できないですよ、その世界とは一線を画して生きてきたので。

ブックショップが閉店した後も、SBS放送で5年ほどテレビ用に映画字幕の仕事もしていて、その仕事がきっかけで、ブックショップに遊びに来ていた映画監督のフィリップ・ノイスの作品『カウラ大脱走』の映画製作の仕事に1年半くらい携わりました。映画『ジュラシック・パーク』で主演を務めたサム・ニールとも親友になったり、映画の世界やテレビの世界も行き来しました。全ての経験は生きていて、今ではほとんどの世界について書ける自信はあります。『エグザイルス~放浪者たち』には、「すべての旅は自分へとつながっている」というサブタイトルが付いていますが、まさにあらゆる経験はその後の自分へとつながっていくんです。

殻を破り自分の発見を追求せよ

ⓒJunya Ikeda
ⓒJunya Ikeda

――ご自身のさまざまな経験から紡がれていく言葉は、これまで若い世代を含め多くの人たちに影響を与えてきたのではないでしょうか?

一度、クレジット・カード会社のCMの仕事でネパールの標高3,900メートルの場所にあるホテルに行ったことがあります。その仕事に向かう機内で1つ席を空けて隣に若い日本人の男性が座っていたのですが、その男性に「もしかしたらハリスさんですか?」って話かけられたんです。「そうですよ」と返事をすると、その方は「僕は『エグザイルス』を読んで会社を辞めて、これからまた大学に進学しようと思っているんです。そして、その前に『エグザイルス』を片手に旅をしようと思い、ネパールに向かっているところなんです」と話すんです。彼とはその後も仲良くしていますね。

最近だと、FMのラジオ局での仕事の飲み会で、40代の部長から「自分が大学生だった時に、『ハリス病』っていうのが流行っていたんですよ」と聞かされました。「何それ?」と尋ねると、どうやら『エグザイルス』を読んだ後に大学や会社を辞めて旅に出る現象ということでした。「『お前もハリス病に掛かったの?』って言い合うのが流行っていたんです」と言われましたね。そういう現象が流行っているのは光栄で、皆が大成してくれると良いのですが……、病気なので被害者や重篤な患者もずいぶん多いようですね(笑)。

――今オーストラリアで頑張っている若い世代の人たちに何かメッセージはありますか?

月並みな言葉かもしれませんが、「日本人同士で固まらず、ローカルの人たちの輪に飛び込んでオーストラリアの社会や文化を知ろう」と言いたいですね。ワーキング・ホリデー制度が始まった当時、シドニーで暮らす若者と話をしていても、彼らはアボリジニーに関する社会問題などは一切知らなかったんです。そういう社会がどういう状況かをもっと知る努力はした方が良いでしょうし、もっと元気にオーストラリアの文化の中に入っていって自分の好きな物をどんどん吸収していった方が良いと思います。また、そのためにローカルの人や他の外国人たちのいるシェア・ハウスに住むのも良い方法ですよね。

日本でよくトーク・ライブをするため若い世代の人たちに接する機会も多いのですが、今の若い世代には勤勉で真面目な良い人たちが多い反面、クレイジーな人が少ない。かしこまらず、もっとクレイジーになりなよって思うんです。若いころは何をしても大丈夫ですから。羽目を外さないと冒険できないですし、冒険しないと自分という枠からは出られないままです。枠から出て初めて自分に対する発見や新しい出会いがあります。シドニーに限らずオーストラリアで暮らす今の若い人たちには、自分の内面にある殻をどんどん破っていろいろなことにトライして欲しいですね。

オーストラリアは空が広く、自然も豊かで、クレイジーで人は素朴でフレンドリー、もっといろいろと見てみなよって思っています。視点を変えて、オーストラリアにいることをチャンスだと捉えて、自分の発見を追求して欲しいですね。

――自分の殻を破り新たな可能性を追求するのは、どの世代にとっても常に重要なテーマかもしれませんね。本日はありがとうございました。(10月12日、東京・渋谷のシーシャ・バーで)


ロバート・ハリス(日本名:平柳進)
1948年、横浜生まれ。高校時代から国内、海外をヒッチハイクで旅する。上智大学卒業後、東南アジアでの放浪を経てバリ島で1年を過ごした後、オーストラリアに渡り73年から89年までの16年間滞在。シドニーで書店兼画廊「EXILES」を経営。日本帰国後は、92年よりJ-WAVEのナビゲーターに。現在は作家・ラジオDJとして活躍。著書には『エグザイルス~放浪者たち』『ワイルドサイドを歩け』『人生100のリスト』『アフォリズム』など多数ある他、メール・マガジン「運命のダイスを転がせ」でも精力的に執筆中。また2018年には自身初の長編小説の出版が予定されている

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