
26年前のシドニーのキングス・クロス。そこには、バックパッカーやワーキング・ホリデーの若者が、それぞれの夢や思いを抱いて集まっていた。そこに、俳優・豊原功補さんもいた。あのとき見たボンダイ・ブルーの海は、青春の輝きとともに脳裏に焼き付いている。ひたすら目指してきた夢を、「役者なんて」と言いながら、「役者だからこそ」とプロ意識をのぞかせる、豊原さんの真実に触れたい。取材・文=石川良一
見知らぬ土地に残した足跡
――若い頃、オーストラリアにいらっしゃったそうですね。
今から26年前です。24歳でした。行きたかった理由は、英語を身に付けたかったから。16歳で俳優デビューしていたのですが、もともとその頃から、アメリカ映画への出演が夢でした。でも英語がしゃべれないと、外国の映画に出るチャンスもないなと考えて。英会話学校でも2年ほど学んだんですけれども、いつかは海外でと思っていたんですね。
本来はアメリカだとか、ニューヨークだとか、そういったブロードウェーの方をイメージしていました。でもたまたま事務所の知り合いで、シドニーのキングス・クロスに、フラットの空き部屋が1つあると紹介してくれた人がいて、そこなら少し家賃も安いと聞き、「じゃあぜひ」ということで決めてしまいました。
――キングス・クロスはどんな街かご存知でしたか。
いや、僕はほとんど情報がなくて。一応、前もって聞いてみたら、「繁華街で、夜は意外と治安が良くない」って。でも、僕の生まれと育ちが新宿の歌舞伎町なんで、そういう部分ではあんまり。「あ、じゃあ逆に水が合っているかな」って(笑)。
――抵抗なかったんですね(笑)。実際、初めてその街に着いた時の印象は。
いやあ、やっぱり感動しましたね。自分の足で立ち、1人で海外生活するっていうのを実現したことが。家からトランクを持って出かける頃から、気持ちは高ぶっていました。「勉強した英語はどこまで通じるんだろう?」とか、ここに来るまでの出来事がわっと浮かんできて、感慨深いものがありました。
ただ、たまたま行った時がイースターだったんですよ。英語の学校と日銭稼ぎだけは早く決めなきゃっていう焦りはあったんですが、オーストラリア中どこも休みで。結局3日、4日は何をしていいのか分からず、仕方ないから土地を覚えようと、ただ歩き回ってました。スーパーはここにあるんだなとか、米は買うべきか、買わないべきか、なんて考えながら。
――本当に初めての土地で、何かを模索するような感じですね。
そうなんです。それで何日か経ってようやく「雪国」っていう日本食レストランが開いていて、そこでアルバイトすることになりました。店を知ったのは、新聞か何かの求人欄。「雪国 ジャパニーズ・レストラン」と書いてあって、場所をなんとか探したら、意外とフラットから近かったんですね。歩いて10分ぐらいでした。採用はあっという間です。マスターに「アルバイトできますか?」って聞いたら、「あ、いいですよ」と簡単なものでした(笑)。
で、働いてから分かったんですけど、実は大繁盛の店でした。レコードのカラオケが置いてあって、日本酒で盛り上がったオージーの方々が、毎晩大合唱なんです。「次はあれをかけろ、これをかけろ」と次々飛んでくるリクエストに、カラオケのレコードをセットしつつ、皿を洗ったり、ものを運んだり。まあ忙しい店でしたね、そこは。でも、5時半から深夜まで、週3、4日働いていました。
――日中はもちろん学校に通いながら?
ええ。シドニーのEnglish Language Centres、通称「SELC(セルク)」っていうんですけど、そこに通ってました。当時は、難しい試験とかなくて、週コースみたいなのがあったんです。持っているお金を換算して、最初は4週コースから始めました。続けたくなったら、働いたお金を継ぎ足せばいいかなと思って。実際、通い始めると楽しくて、勉強になるんで、どんどん延長していきましたね。
学校にはアジア圏の人も多かったんですが、目的としては英語を学ぶということだったので、できる限り英語のうまい欧米圏から来ていた人たちと友達になりました。その何人かとは、学校が終わってバイトがない日はバスに乗ってボンダイ・ビーチへ行くなど、青春を味わった思い出があります。当時は、ものすごくボンダイ・ブーム。海がホントに奇麗でしたね。
青春と言えば、向こうでバンドも組んだんですよ。バイトがない日にライブ・ハウスに出たりしたんですね。「僕も日本でバンドやってる」って話をどこかでしたら、「じゃあやろうよ、ボーカルが今いないんだ」って言われて、それでスタジオに行って練習するようになったんです。そのメンバーは、どこで出会ったか覚えてないんですけど(苦笑)。僕は日本から楽器を持っていかなかったんで、学校の近くにあった古楽器屋さんで安いエレキ・ギターを1本買って、ライブをやってましたね。
メンバーは外国人も混じってましたが、ベースは日本人でした。僕よりいくつか歳下の男の子で、そいつはバックパッカーだったんです。「ベースはどうしてんの?」と聞いたら、「近くの彼女のうちに置いてあって、旅から帰ってきた時にライブをやるんだ」って言ってて。かっこいい子なんですよ。その頃ホントにバックパッカーや、ワーキング・ホリデーで旅をする子が多かったんですよね。
それでライブはというと、まあ僕も20代前半で若かったし、歌詞も日本語なんだけど、なんか一生懸命やってたんでしょうね。ちょっと面白かったみたいで、ライブ・ハウスのオーナーが、「海岸線のライブ・ハウスを回ったらいいじゃないか」って言ってくれて、これは面白いことになってきたぞ、と。
そんな時ですよ、日本の事務所から電話がかかってきたのは。「オーディションがあるから、いっぺん戻って来てくれ」って。まだ戻りたくなかったんですけど、「役者の仕事もちゃんとやらなきゃマズイでしょ?」って説得されました。それで「分かった、いっぺん帰るわ」って、3カ月でオーストラリアを離れました。すぐ戻るつもりだったのに、2年前、テレビ番組の撮影で一度訪れただけ。もう26年経ってしまいましたね。
――今、お聞きしたことが、たった3カ月の出来事なんて、驚きです。
そうなんですよ。たかだか90日、3カ月なんですけど、ものすごく中身が濃くて。朝、起きたら学校へ通い、宿題もやらなきゃならない。で、ジャパニーズ・レストランで働き、バンドも組んで。それでたまには友だちとバルに行って、お酒を飲んだりしてたので。あっという間の、夢だったんじゃないかと思うような3カ月でした。20いくつじゃなきゃできないですよね。
今、自分がうらやましいですもん、その時の自分が。2年前に再び訪れた時は、ボンダイ・ビーチも、正直、この程度だったかな……と。だからその時の年齢とか、環境とか、自分の思い入れが、見る景色も変えるんだなっていうのは実感しました。
――キングス・クロスで得たものは?
自分で若い頃から「行きたい、やりたい!」って言ったことを、少なからずは1つ実現をした、そういう足跡を残したこと。外国の文化に体1つで飛び込んだことでアイデンティティーを作れたと思います。どこの国の人間であっても、人としての関わりあい方には変わりはない。言葉を壁と考えずに、そこを越えた先には必ず同じものがあるっていう。狭く考えちゃいけないって思うようになりました。
自分の芯は変わらない
――日本に帰ってからは、また俳優業に専念されるわけですが、そもそもこの世界に入ったきっかけは何だったんでしょう。
僕は生まれた時から歌舞伎町でしょう?歳の離れた兄と映画館に行く機会が非常に多くて、兄がその頃『イージー・ライダー』とか『タクシー・ドライバー』とか、アメリカン・ニューシネマみたいなものを見たりしているうちに、アメリカ映画への憧れっていうのが、すごく強くなって。それで15、6のときに、ちっちゃい劇団に入団したんです。みんなで芝居を毎晩遅くまで作ったりとか、オーディションを受けまくったりとか。僕は映像の方が意外と早かったので、16の時には映画やテレビの大河ドラマとかに出させて頂いていました。
――実際に俳優になって、憧れていたスクリーンの世界との違いはありましたか。
やっぱりなかなか憧れた世界の方たちのような演技もできなければ、場所もなかなか与えられないですし、機会があっても「自分自身それができているか?」といつも自問自答で。これは今もずっと続いています。
でも僕の場合、きちんとした先生や先輩を作るのが苦手な性格なので(苦笑)、どうしてもお手本となるテキストは、憧れた世界の俳優たちなんですね。だから今でも見ますよ。『ゴットファーザー』しかり、『太陽がいっぱい』しかり。最初から憧れていた世界、その後出合った日本映画の先輩たちの出演作というものを、自分のテキストにしてなぞってやってるわけです。
それが自分のものになっていくのは、時間がかかりました。でも、一度自分のものが形成されると、どんなものを吸収してもちゃんと変換されるっていうか、ミックスされていくんです。
――自分の中の芯は、徐々に見えてきた感じですか。
そうですね。他から入るものっていうのは、自分が他であろうとする気持ちですけれども、結局のところ自分自身に返ってきますから。例えば泣く演技をうまくやるってことより、「何が悲しいんだこの人は?」って自分に問い正すことになるんです。
その自分っていうのは、親や周りの友だちの言動の影響を受け、生まれてから15歳ぐらいまでに経験したことで作られている部分が結構大きくて。演技をしたり、何かを作ろうと思う原動力って、結構そういう時期に蓄えたものが芯になっているんですよね。「その芯=自分は変わらない」ってことに強く気付くと、今度は「自分自身を豊かにしなくちゃいけない、身をもって経験していかなきゃいけない」と思うようになりました。
――俳優としてのご自身の強みは、どのようにお考えでしょう。
それはどうなんでしょうね。俳優と言っても、結局はお客さんが見て決めることなので……。もし、ものすごく強みだというものが分かってるんだとしたら、もう少し活用できてると思うんですよね(苦笑)。
ただ、オファーする側から考えると、何か演じてもらおうと思うと、そう見える人を選んでいくわけですよね?そういう意味で自分がもらっている役というのは、おそらく自分がそんな風体や雰囲気を持ってるんだろうというのがあります。けれども、役者個人っていうのは「常に違うことをやりたい!」っていうのがあるので、そう感じさせる雰囲気や風体、つまり自分が広がらないことには変わらないんだろう、と思っているんです。同時に、自分の裏側や外側や中身がどうなんだろうということを、紹介できる場所を作る必要性は感じています。
――ご自身の転機になったようなお仕事は?
1つひとつの仕事、全部が転機だと思っています。例えば27、28の時には、この職業だけでいっぱしに暮らせるようになったので、その頃のテレビやVシネマの仕事には感謝してます。
刺激を受けた映画監督でいうと、やっぱり青山真治さん(『ワイルドライフ』)や黒沢清さん(『893(ヤクザ)タクシー』)。映画を楽しませてくれる人たちと仕事ができて面白かったですね。
あと40くらいの時ですかね、もともとテレビで知り合ったんですけど、岩松了さんという演出家の方がいらっしゃって、この方が舞台『シェイクスピア・ソナタ』の出演に呼んでくださったんです。あの方が描く世界観といいますか、言わんとしていることにすごく感銘を受けました。必ずしもエンターテインメントということで、お客さんを「ワーッ!」って喜ばすとか、こんなことやってます、こんな事件が起きました、人が死にましたっていうことではない。実生活を送る人の心の中で何かが起きている、その深さと浅はかさと滑稽さ、そういうのを突き詰めてもいいんだっていう指針になりましたね。
それもまた舞台だったのは大きかった。僕は舞台から出てきた人間なんで、そこへ帰してくれたっていう気持ちがあります。やっぱり板の上で何かやるっていうことの面白さを、改めて感じさせてくれたので。
――その面白さとは?
あやふやさ加減ですよね。例えば映画は、ワン・カットの中に本当に溜め込んだものを発射するっていう感じがあります。その中に照明も技術もみんながいっぺんに集中して、力を集約している。で、その後、編集で面白いものに仕上げていくっていう、何断層にも分かれている総合芸術みたいなところがあります。
一方で舞台の場合は、その板の上に立っている役者に課せられたものって非常に大きいんです。そこにあるのは、役者と客っていう、その両者のコラボレーションしかない。観客もその作品の中の1つで、客が入るとガラッと変わったりするんで。
――豊原さんにとって役者とは?
うーん、まあ、憧れではあったんですけれども、子どもの頃はさして裕福な家でもなかったし、僕も勉学っていう方にあまり頭が働かなかったので、なるんだったらボクサーとか役者とかしかないなって。ボクシングをやってる頃は本気でボクサーになろうと思ってたし。で、今となって他のいろんな仕事を見て考えてみてもね、通用しないだろっていう思いもあって。だから「せめて役者ぐらいは通用させてくださいよ、神様!」っていう気持ちでね。
――役者も立派な職業だと思いますよ。
いや、そもそも、役者なんて言ったら笑われてなんぼみたいなところがあるじゃないですか?要するに、指さされて「あそこに面白い奴がいるぞ」みたいな(苦笑)。
――いや、でも楽しまれている気がします。
そうですね。人間でしかできない仕事、いっぱいありますけれども、役者はややもすれば不自然なことばっかりやってるわけじゃないですか?例えば、カチンと鳴ったら、突然苦しみだせ、みたいなこと。自分の精神状態をおかしくしていく作業なので。そういう不自然なことやって仕事なんだっていう面白さはあります。それに、いろんな方に出会えますからね。
どこまでも扉がある、奥深い世界を
――今後力を入れていきたいことは?
今後も変わらず、面白おかしい芝居ができればいいなと思っています。ただ、プロ意識をきちんと持っている俳優同士が、自分たちで発想して自分たちで作るっていうことを、今後何年かのうちに演劇や映画の世界で実現できればっていうのはあります。最近は、安易に流行を追う作品も少なくありません。それですごく移り変わりが早いですよね?だから、「こういうのが良いと思わない?」っていうのを、こちらから提出するしかないなって。
テレビでも、舞台でも、映画でも、音楽でも、若い頃に見たものは、何かしら影響を受けて人生の中に組み込まれていくと思うんですよね。自分に照らし合わせると、往年の作品には、自分の知らない大人の世界があって、そこを背伸びして垣間見ることで刺激を受けていた気がします。開ければ開けるほど扉があって、開けているうちに自分がこの歳になっていたっていう感じです。
自分の感覚だと、今の作品は、ぱっと開けたら、ぱっと分かるけど、その後ろには何もないっていうような気がするんですね。もちろん作品作りの努力はいろいろあるんですけど、「何か信念があってやっているのか?」っていうとそうでもないような気がして。それも悪いとは言わないけれど、そればっかりでもダメだろうって思うんで。変な例えですけど、自分が食いたいものがないからどうしようと思っている感じですよね。ただ自分がやりたい世界観に近付いているかというと、なかなかそれは。一生かけて到達できるかっていうところにあるんですよね。
――これからもますます面白いことをやってくださりそうで楽しみです。直近ではどんなお仕事をされていますか。
まもなくクランクインする映画とテレビ・ドラマの仕事があります。最近撮り終わったのは、園子温監督の『新宿スワン2』です。実は僕、意外と続編嫌いでね、昔若い頃、どんなにバカだったんだと思うけれども、ちゃんとしたテレビのレギュラーの続編を「ヤダ!」って言ったりね(笑)。でも今回は、園子温監督が面白い監督だったし、実は前作の撮影中から言われてたんですよ、「次、やるから」って。それで「あ、ホントにやるんだ」と思って受けました。現場も面白かったですね。いっぺんやっているから、集まった時にはその雰囲気がある。今回は舞台が横浜に行っちゃって、更にいろいろな登場人物が出てきます。いろいろな俳優が見られるので、派手だと思いますよ。
――最後に、オーストラリアでの経験を踏まえて、メッセージをいただけますか。
本当に人間ってなんだろうって思いますね。これだけネットやテレビなどのメディアを通じて情報が伝わっているのに、共通認識が持てない。昔は知らなかったから起こした間違いもあったわけでしょ?
テロだって、犯罪だって。でも、今、同じものが共有できるのに、考え方だけが違っていく、それはなぜだろうって。理解し合っているつもりになって、結局、上辺だけなんですよね。「ホントに国際化するなら、同じ基準でモノを考えられない?」っていうのは、毎日思いますね。そんな世の中が実現してほしいです。