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【リバイバル】小野伸二がシドニーへ降り立った日 ─本紙独占インタビュー再掲

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総力インタビュー 小野伸二の現在地(2012年10月)

 ウエスタン・シドニー・ワンダラーズで活躍など、当地でもレジェンドの1人として未だ多くのサッカーファンの記憶に残る小野伸二選手がいよいよ現役を引退する。そのニュースはシドニーでも話題となり、12月3日(日)には最終戦のビューイング・イベントも開催される。本記事は2012年当時小野選手がシドニーに来られた際に行った取材を通して書かれた記事だが、この機会に再掲させていただく運びとなった。ぜひその軌跡を振り返っていただければと思う。
(2023年11月28日。編集部)

責任、貪欲、そして誇り

 2012年10月1日、小野伸二がオーストラリアにやって来た。Jリーグの名門「清水エスパルス」から、Aリーグの新生クラブ「ウエスタン・シドニー・ワンダラーズ」への移籍を果たしたためだ。「天才」と呼ばれ、日本のサッカー界の中心で光を浴び続けた男のオーストラリア・リーグへの参戦は、在豪の日系コミュニティーだけではなく、地元オーストラリア人のサッカー・ファンにとっても大きなニュースだった。来豪から1カ月、彼は今、何を思うのか。小野伸二の現在地をインタビューとともに探る。

取材・文=馬場一哉
写真=馬場一哉
Richard Luan

めまぐるしい変化

 NSW州時間約午前6時30分、シドニー空港に到着。荷物のピック・アップを終え、小野は到着ゲートに向かう。2010年、ドイツ・ブンデスリーガのVFLボーフムから清水エスパルスに移籍し、チームを牽引する存在として活躍したが、チームとの方針の相違ゆえ、今シーズンの出番は決して多くなかった。そんな中、急遽決まったAリーグへの電撃移籍。新天地での新たな展開を目指すことになったわけだが、その決定はあまりにも唐突。心の準備をする間もなく、オーストラリアへと飛ぶこととなった。

空港に降り立つと大勢のサポーターとメディアが待ち受けていた(10月1日、シドニー空港で)

 オーストラリアのサッカー人気はヨーロッパや日本のそれと比較するとまだまだ発展途上。AリーグのレベルはJリーグにも若干劣ることから、自身への注目度もそれほど高くあるまい。彼がそう思っていたことは想像に難くない。だが、空港に到着し、ゲートで彼を出迎えたのは、到着を心待ちにしていた大勢の新生ウエスタン・シドニー・ワンダラーズ(以下WSW)のサポーターたちと、数多くの報道メディアだった。

「オーノ、オーノ、オーノシンジ!」

 今季加入の新チームのWSW、さらに小野の移籍決定からはわずか数日。いったいいつ、どのタイミングでその歌が作られたかは不明だが、ともあれサポーターたちは小野の応援ソングを歌いながら彼を出迎えた。小野はすぐにメディアのインタビュー攻勢の渦に巻き込まれる。

 オランダでの4年半、そしてドイツでの2年と海外でのプレー経験も長い彼のこと、現地メディアの質問にも流暢な英語で返す。

「今はAリーグについて知っていることは少ないけど、とにかく自分にできることをやるだけです」

 記者たちが矢継ぎ早に質問する。「初戦への準備は?」「移籍のきっかけは?」etc…。

 この時の様子を小野はこう振り返る、

「オーストラリアのリーグでプレーすることをこれまで想像したことがなかっただけに、Aリーグのことも全然知らなかった。だからこそ到着した時に大勢のサポーターが応援ソングを歌っていて、本当にびっくりしました。そして数多くの現地メディアが僕を待っていたことにただただ驚きました」

 オーストラリアのサッカー事情を学ぶ間もなく、チームについても何も情報がない状態での、あまりにも急な移籍だった。

「話があってから決まるまでの期間は1週間から長くても10日ほどだったと思います。こんなに急な展開は普通ではあり得ないことです。ただ、オファーがあるということは選手として本当に嬉しいことだし、素直に受け入れました。家族も、離れ離れの生活になる寂しさはあったと思いますが、それを表に出さず、背中を押してくれました」

 ブログで移籍の旨を伝え、ファンからはビデオ・メッセージなどが届いたものの彼らと実際に交流する時間などは持てず、家族や仲間とも唐突な別れを余儀なくされ渡豪。到着の翌日にはAリーグの開幕イベントに参加。そしてその4日後には初戦のピッチに立つこととなった。何もかもがめまぐるしいスピードで変化していった。





「世界で一番の選手になりたい」

 小野伸二と言えば、日本のサッカー界を背負ってきたスーパー・スターの1人として当然ながら多くの人に知られているが、常に光り輝く道の真ん中を歩いてきたわけではない。そのサッカー人生は苦難にもまた満ちている。

 静岡県沼津市に生まれた小野は、小学生のころから豊かな才能に恵まれ、周囲からは文字通り「天才」と呼ばれていた。だが、当時彼はどこのチームにも属さず、いつも1人でサッカー・ボールを蹴って遊んでいた。そんな彼に地元のサッカー少年団が白羽の矢を立てる。あふれんばかりの才能を見い出し、スカウトを敢行したのである。

 「当時はただ1人でサッカー・ボールを蹴ることを楽しんでいただけなのですが、誘ってもらったことで、団体でやるサッカーの楽しさを知ることができました。スカウトしてもらったことに本当に感謝しています」

 13歳でU-16日本代表に選出。翌年、U-16アジア・ユース選手権で優勝し、さらにその翌年にはFIFA U-17世界選手権大会へと出場。彼のサッカー人生はスタートすると同時に宿命のように光り輝くものとなった。その後も所属チームの浮き沈みはあるものの彼自身はその評判を1度たりとも落とすことなく、常に最高のプレーヤーとの評価を得続けた。

「とにかくサッカーがうまくなりたかった。世界で一番の選手になりたい。その気持ちしかなかったです」

 そんな思いが高校卒業とともに1つの形として結実する。

「高校を出たばかりの18歳で日本代表に選ばれた。これは本当にすごいことだと思いましたし、はっきり言って信じられないような気持ちでした。代表の経験を通してこの時知ったのは、自分に足りないもの。もっと練習しなければ、もっとうまくならなければと思いました」

初のデル・ピエーロとのマッチ・アップ(10月20日、「WSW 対 シドニーFC第1戦」パラマッタ・スタジアムで)

 世界一の選手になるべく謙虚に自身の足りない部分を見つめ直したそんな折、小野をその後も長く苦しめることになる出来事が起こる。シドニー・オリンピックのアジア地区予選で、悪質なタックルをくらい、左膝靭帯断裂の重傷を負ってしまうのだ。それにより長期の戦線離脱を余儀なくされる。回復後も後遺症に苦しむ時間が続き、当時在籍していた浦和レッズもJ2に降格してしまう。自身のコンディションがなかなか戻らぬ中、それでも00年にはクラブ史上最年少のキャプテンとしてチームを牽引し、チームをJ1に昇格させることに成功するなど、コンディション不足を持ち前のセンスと努力で補う時期が続いた。

 翌年、オランダの強豪、フェイエノールトに移籍し中心選手として活躍。01年にはクラブの優勝に貢献する。また、日本代表としても日韓共催ワールド・カップで日本を初のベスト16に導くことに貢献するなど活躍を続け、02/03シーズンにはアジア・サッカー連盟より年間最優秀選手に選出される。輝かしい戦績、輝かしい経歴。文句なしにスター選手として華やかな道を歩んでいるように見える。

 しかし、こう思っている人も少なくないのではないか。「天才」小野ならば世界の中でさらなる高みに上り詰めることができたのではないか。イタリアの名門リーグ・セリエAの強豪インテルのエースとして活躍した元オランダ代表のスナイデルに「これまで対戦した中で最もうまい選手」と言わしめた彼ならば、真に世界一のプレーヤーとしての名声が与えられ得たのではないか。

 彼を常に苦しめたもの。それはケガだった。靭帯断裂の影響は常に彼を苦しめ、また、その後も03/04シーズンにはやはりケガで日本代表としてのコンフェデレーション・カップへの出場を逃し、05/06シーズンには疲労骨折で戦線離脱など、彼の背後には隙を窺うかのようにケガが付いて回った。

「ケガから復帰できれば、サッカーができる喜びは当然感じられるようになります。でも、ブランクはなかなか取り戻せないし、良い時もあれば悪い時もあったりで、苦しい時間が続きました。僕はサッカー選手ですからね。サッカーをやってなかったら“何でもないただの人”なんです。サッカー・ボールを蹴れない時間というのは自分の中で本当に悲惨な苦しい時間でした」

 そう言いつつも明るくこう切り返す。

 「ただ、今思えばなんてことはないです。当時は辛かったですけど、今こうして楽しくサッカーできる状況があって、90分プレーできる体があって、いい仲間がいて。過去を振り返ってもそんな時もあったなとしか感じないですね」

 「天才」と呼ばれ、常に注目を浴び続けてきたが、原点に立ち返ると一番大切なことは、サッカーをし続けることだと気付いた。

 「世界一のプレーヤー」になること、それは大きな夢ではあったが、何よりの苦痛は人生そのものであるサッカーを取られてしまうことであることに気付いた。プレーできる身体があり、チームがあり、仲間がいる。それが一番重要なこと。小野はそう強く語ってくれた。

果たすべき「責任」

ランニング時も先頭を切ってチームを引っ張っていた(10月10日、ブラックタウン郊外のグラウンドで)

 小野の移籍はオーストラリアのサッカー・ファンにとって、3つのビッグ・ニュースのうちの1つであった。残りの2 つ、それはイタリアのスーパー・レジェンド、アレッサンドロ・デル・ピエーロのシドニーF Cへの移籍、そして元イングランド代表のエミール・ヘスキーのニューキャッスル・ジェッツへの移籍だ。サッカー人気の盛り上がりにいまいち欠けるオーストラリアにおいて、Aリーグは今季、この“ビッグ3”を投入するという勝負に出た。小野の所属するWSWはオーストラリア・サッカー連盟(FFA)肝いりの新チームとして注目を集め、デル・ピエーロが所属するシドニーFCとは同じシドニーを拠点とするクラブ同士、創立時点から因縁の関係として盛り上がりを見せている。小野は、デル・ピエーロ、ヘスキーとともに、チームだけではなくAリーグ全体を盛り上げる「責任」もまた背負わされている。

 来豪からわずか5日後、WSWのホームであるパラマッタ・スタジアムで、チームの初陣が行われた。相手はレギュラー・シーズンで2度の優勝経験を持つセントラル・コースト・マリナーズ。チームは合流直後の小野のコンディションを意識し、前半は温存。こう着状態が続いた後半、途中出場すると、交替後早々に鋭いスルーを決めるなど、存在感を示す。しかし、FW陣が対応できないシーンも多く、初戦をドローで終える。続くアデレードで行われたアウェー戦は敗退。

 そして迎えた10月20日の第3戦は、デル・ピエーロ所属のシドニーF Cとのダービーということで注目のカードとなった。チケットは試合1週間前に完売。WSW、シドニーFCの両チームのサポーターに埋め尽くされた満席のスタジアムの盛り上がりは最高潮に達し、WSWの初勝利への期待もピークに達していた。

 そんな中、フル出場を果たした小野は随所で好プレーを見せた。彼がボールをキープし、さばくたびに観客席から歓声が上がる。一挙手一投足、彼のすべての動きに観客は注目した。

 しかし、このデル・ピエーロとの直接対決は、デル・ピエーロ自身の決勝点により勝負が付いた。ペナルティー・エリア内で倒されたデル・ピエーロがPKを獲得。1度は決めるものの笛が鳴り打ち直し。2本目のPKはキーパーにはじかれるも、こぼれ球を確実にゴール。そこまでのプレーでは精細を欠きながら、ここぞというところで落ち着いて決めるあたり、さすがはデル・ピエーロといったところ。

 だが、全体を通しての動きは確実に小野に軍配が上がったように思うのは贔屓目だろうか。負けはしたもののWSWサポーターの盛り上がりは衰えることなく、激励の声が鳴り止むことはなかった。

 「僕自身のプレーも、こちらに来てから日が浅いこともあり、感覚的にはまだ探っている状態です。ですが、日を追うごとにチーム・メイトともお互いのことを分かり始めているのであとは良くなっていくだけ。そう思っています。ただ、3戦目のダービーでは、そろそろ結果が欲しかったですね」

 自身が言うように、3試合を終えた時点でチームは無得点。270分、まだ結果としては何も残していない。

 「チームとしては随所にいい所は出せたと思うので、サポーターの方に、チームが階段を上っていく途上の喜びを感じてもらえた部分もあったと思います。ただ、負けてしまうとその喜びも消えてしまいます。僕らにはもっともっと来てくれたお客さんをハッピーにしていく“責任”がある。そう思っています」

貪欲、そして誇り

小野伸二、アレッサンドロ・デル・ピエーロ、エミール・へスキーの“ビッグ3”がそろい踏み(10月2日、Aリーグのメディア向けローンチ・イベントで)

 2010年より地元の名門、清水エスパルスでプレーしていた小野だが、前述したように今季、チームの方針との相違もあり、プレーの機会は激減していた。ゲームへの出場機会が減ると当然“勘”も鈍る。だが、WSWへの移籍以来、調整のため後半途中出場となった初戦を除けばすべて90分フル出場を果たしている。当然ながらチームの主力として定着を果たしているわけだが、しばらく試合を離れていたことへの危惧もまたあるという。

 「最後にフル出場したのはいつだったかという気持ちです。今は90分やらせてもらえていますので、その中で得点をすること、アシストをすること、そういうことをしっかりやるために試合の感覚を取り戻したいですね。チームが優勝するために全力を尽くすのは当然として、僕自身、もっとサッカーに対して“貪欲”になる気持ちを蘇らせたいと思っています」

 とらえようによっては、しばらく前線を離れていたことで、サッカーに対する貪欲な気持ちを失いかけていたとも取れる。しかし、いずれにせよ、この地で今、小野はその貪欲な気持ちをこれでもかと前面に押し出し、これまで以上のモチベーションを持ってサッカーに取り組んでいる。

 拠点がパラマッタ・スタジアムということもあり、現在はシティ周辺ではなく、郊外に居を構えているそうだが、その家探しもすべて自ら行ったという。新たな地での生活を、他人に頼らずいちから自分で構築したい。そのような心理の現れかは定かではないが、少なくともこの新天地での挑戦を心から楽しもうと考えていることがその表情からはうかがえた。

 オーストラリアの日系コミュニティーも小野伸二の来豪を喜んでいる。そのことを伝えてみる。

 「日が浅いのでまだまだこちらの日系社会との関係も深くはないですが、僕に限らず、日本人がオーストラリアで活躍することで、日本人が見直される。僕ががんばることで、日本人が褒めてもらえる。そんな存在になれたら誇らしいなと思います」

 Aリーグ2連覇を果たしているブリスベン・ロアとの対戦を数日後に控えたこの日のインタビューはチームが練習で使用しているブラックタウン郊外のグラウンドで行われた。そこでは小野がチームの一員として、そして支柱として溶け込んでいる姿を目のあたりにした。WSWを優勝に導くべく、最善を尽くそうとする彼の決意をひしひしと感じさせられた。

 「天才」と呼ばれ、栄光の道を歩みながらもケガに苦しめられ、サッカーができない辛さを十分に味わってきた彼にとって、今、この地でプレーをしていることはそれだけで大きな喜びだという。新天地での活躍を心から期待するとともに、日豪プレスでは今後とも彼を追い続けていきたい。追記:インタビューの3日後に行われた強豪ブリスベン・ロア戦でWSWはついにチーム結成初勝利を飾った。

2023年12/3(日)シドニー・シティのパブで、元サッカー日本代表のレジェンド・小野伸二選手の現役ラストマッチを観戦するビューイング・イベントが開催されます! 2012〜13年、ウエスタン・シドニー・ワンダラーズで活躍、チームを優勝に導いた立役者としてオーストラリア人にも多くのファンを持つ小野伸二選手最後のゲームを、みんなで応援しよう!

参加ご希望の方は、11月30日(木)までにこちらのリンク(https://bit.ly/47min8H)からお申し込みください。

開催場所:Cheers Sports Bar & Grill (561 George St, Sydney NSW 2000)
募集人数:220名
※お食事とお飲み物には限りがございます。
お申し込みhttps://bit.ly/47min8H





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