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【原発】「僕は歩きたかった、ただ、東北の人々のために」

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ルポ:シリーズ・原発問題を考える⑫

「僕は歩きたかった、ただ、東北の人々のために」

 ──ピーター・ギブソンさん


 世界有数のウラン輸出国として原発産業を支えつつ、自国内には原子力発電所を持たない国オーストラリア。被ばく国であるにもかかわらず、狭い国土に世界第3位の原発数を誇る原発大国・日本。原発を巡る両国のねじれた構造を、オーストラリアに根を張る日系媒体が取り上げないのはそれこそいびつだ。ルポ・シリーズ「原発問題を考える」では、原発を取り巻くさまざまな状況を記者の視点からまとめていく。
取材・文・写真=馬場一哉(編集部)

早いもので連載開始からちょうど1年になるが、原発を取り巻く状況はほとんど何も変わっていない。福島第1原発からの汚染水流出がたびたび報じられていることを考えるとむしろ事態は悪化しているのではないかと思わされるが、一方で東京五輪の開催が決まり、また非難区域の線量の測定基準は事実上緩和され帰宅のハードルが下がるなど(*)事態はいかにも好転しているかのような様相を呈している。

この状況を少し薄気味悪いと思うのは記者だけか。大地震、大津波、そして史上まれに見る大事故、その被害を必死で収束すべく今でも現場は決死の覚悟で動いているはずなのだが、そこから少し離れたところにいる「世間」はそれを忘れつつあり「もう大丈夫」と無意識に思い込んでいるような気がしてならない。もちろん、そう思わなければ前に進めないということもあるだろう。記者も震災後、東京で仕事をしていた時はやはりそう自分に言い聞かせていたからよく分かる。だが、それは個人がそれぞれ収集した情報から判断することであり、決して上から決め付けられるものではない。汚染水は完全にコントロールされていると嘯き、また規制を緩和し「大丈夫」という空気を蔓延させ、あくまでも収束に向かってまい進しているイメージを植え、震災や事故を過去のものにしていくのはやり方としてフェアではない。何か予期せぬことが起こった時に、結果、割を食うのは国民、特に東北で避難生活を送っている被災者だ。だからといって常に気を張り自身で真実を見極めよなどと大上段に言うつもりはない。健全な人間生活を送るためにも鈍感になることもまた必要だ。それにどう向き合うべきかなどはそれこそ記者が押し付けるようなものではない。

だが、今でも避難生活を強いられている被災者にしてみれば、自分たちのことを忘れられてしまっては困るのだ。震災でかつてない悲しみを体験し、今も避難生活を余儀なくされている人が大勢いることくらいは頭の片隅に常に置いておくくらいのことは誰だってできるのではないか。多くの人がそれをすることで、復興は事実、結果として早まるだろう。

さて、そんな日本人ですら震災の記憶を薄れさせ始めている中、被災地の人々を励ますために東北を行脚したオーストラリア人がいる。今回は震災から2年半経った9月下旬から10月にかけ、東北を訪れたピーター・ギブソン氏を紹介したい。


*原子力規制庁によると、これまで放射線量は航空機などを使って計測した空気中の数値をベースに算出していたが高めの値になりやすいため、住民1人ひとりが個人線量計で測る方法に切り替える予定だという。被曝線量は現実に即した低い値になるため避難生活者の帰宅の可能性が高まる。

「東北で起こったことを忘れないでください」


今回のために特別に作ったTシャツ

記者がピーター氏と出会ったのは偶然だった。仕事帰りに訪れたレストランで、たまたま鉢合わせた知り合いから紹介されたのがきっかけだ。

「僕はあの震災の日からずっと東北のために何かしたいと思い続けていました。そして今年に入りその思いを行動に移すことにしたんです」

話を聞きたいという記者に、ピーター氏は開口一番そう答えた。氏は22年間の長きに渡り、コーチとしてオーストラリア、日本を股にかけ活躍した元テニス・プレーヤーだ。日本テニス協会で最初の外国人コーチになった人物として知られ、東北地方も含め、日本全国さまざまな土地を訪れテニスの指導をしてきたという。オーストラリアではMLC Hot Shots(オーストラリアのテニス少年少女育成プログラム)の本部長も務めた。テニスの振興に携わりながら企業勤めをし、東北行脚の直前まではナショナル・オーストラリア銀行のマネジャー職を務めていた。しかし今年に入り、彼は東北地方を回る旅を実現するために職を辞すという思い切った選択をしたのである。「会社を辞めなければ長い休みは取れないからね」と言うが、震災ですべてを失った人を訪れるためには、自身もまた0の状態で臨む。そんな思いもまたあったに違いない。


ピーター氏が去るのを泣いて止める宮城県塩釜在住のりゅう君

トレーニングも含め、出発前の準備は時間をかけて入念に行ったそうだ。

「出発は福島市。そこから北上し、2011年3月11日まではその地名をほとんど耳にすることもなかった石巻、気仙沼、南三陸などの町を巡り、大船渡を終点とすることにしました」

「東北支援テニス行脚」とプリントされたTシャツを着て歩き、すれ違う人々とコミュニケーションを取りながら歩き続ける。ちょっとした空き地を見つけるとそこに簡易ネットを張り、地元の子どもたちとテニスを行った。

「1日に25キロ歩いて、できるだけ現地の方と交流する。そして東北の子どもたちを笑顔にする。自分の中で決めていたのはそれだけです」


宮城県岩沼市のテニス・クラブでもテニス・レッスン

ピーター氏は当初描いていたルートを変更し、津波の被害のひどかった石巻市立大川小学校を訪問する。児童108人中74人、教職員10人が死亡した場所だ。

「立っているだけで本当に悲しい気持ちになりました。石巻では聞くに堪えない悲しい話をたくさん聞きました。皆さん、泣きながら話をしてくださいました。被災地では今なお10万人近い人々がホームレスや仮設住宅での暮らしを余儀なくされています。被災地には、理解や想像を超える光景がたくさん広がっていましたし、この目で実際に見るまでは信じられないものばかりでした。それでも被災地の人々は明るく楽しく僕と話をしてくれました」


(左)途中、南三陸では台風に見舞われた (右)テニスができるように即席のネットを持ち歩いた

途中、台風に見舞われもしたが何とか予定通り300キロ・メートル以上を走破。ピーター氏の行動を記者が称えると、頭を振りながらこう応えた。

「僕はただ勝手に歩いて、足にマメを作っただけですよ。すごいのは今も復興に向けて頑張っている東北の人たちです。東北に普通の暮らしが戻るまで、まだ長い道のりが続きます。東北の人々は皆達者でしたが、私と交わした会話には彼らの願いが込められていました。それは、日本や世界の人々に向けて『自分たちは復興する。自分たちは決してあきらめない。皆の助けが必要です。東北で起こったことをどうか忘れないでください』というメッセージでした。それを海外でも伝えてほしいと言われました」


シドニーに戻ったピーターさんは現在、職探しを始めたところだという

震災が過去のものと認識されつつある今こそ、被災者のメンタル・ケアを含めて復興支援のあり方を改めて見直す時なのではないだろうか。ピーター氏の行動が出会った人々に与えた影響はきっと大きいだろう。ピーター氏の行脚リポートはまた機会があれば、細かくお伝えしたいと思う。


■ピーター氏の歩いたルート
福島市−37km−白石−28 km−岩沼−18 km−仙台−18 km−七ヶ浜−13 km−松島−18 km−矢本−17 km−渡波−8 km−石巻−21 km−大川−20 km−柳津−21 km−長清水−12 km−志津川−27 km−大谷海岸−12 km−気仙沼−23 km−陸前高田−16 km−大船渡
(9月28日〜10月24日、計309km)

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