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本誌独占・菅直人インタビュー

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ルポ:シリーズ・原発問題を考える㉑ スペシャル


(撮影:馬場一哉)

本誌独占インタビュー

菅 直人

「果たさねばならぬ責任」

 世界有数のウラン輸出国として原発産業を支えつつ、自国内には原子力発電所を持たない国オーストラリア。被ばく国であるにもかかわらず、狭い国土に世界第3位の原発数を誇る原発大国・日本。原発を巡る両国のねじれた構造を、オーストラリアに根を張る日系媒体が取り上げないのはそれこそいびつだ。原発を取り巻くさまざまな状況を記者の視点からまとめるルポ・シリーズ「原発問題を考える」、今回はスペシャル版として菅直人・元首相へのインタビューをお届けする。
取材・文=馬場一哉(編集部)

東日本大震災発生時、時の政権として陣頭を指揮した菅直人・元首相が8月下旬にオーストラリアを訪れ、約1週間にわたり各地を巡った。氏のオーストラリア滞在時の動きは以下の通りだ。

22日、オーストラリア入りした菅氏はダーウィンにある北部準州議会で基調講演を行った後、翌日カカドゥ国立公園へと移動。福島第1原発で使用されたウランが採掘されたレンジャー鉱山の土地を所有するアボリジニのミラル族の代表者らと会談後、鉱山を視察した。24日にはパースに移動し、市庁舎で開催されたパブリック・イベントで講演。会場には、緑の党におけるウラン問題の責任者、スコット・ラドラム上院議員や、東日本大震災で家族を失った石巻市の相沢寿仁君に心温まる手紙を送ったことで話題となったアシュウィン君も駆けつけたという。アシュウィン君は、当時被災地を訪れる予定だったジュリア・ギラード首相(当時)に手紙を託し、その手紙は菅総理(当時)の手を経て相澤君の元に届けられた。今回、菅氏はアシュウィン君との面会も果たした。

25日にはパース市で建設が予定されている波力発電所の研究を進めるカーネギー社を視察。その後、労働党に所属する西オーストラリア州議会議員の議員らと州議会で会談を行った。翌26日には首都キャンベラへと移動。与党・保守連合でウラン採掘を所管するイアン・マクファーレン産業資源大臣や、野党・労働党のタニヤ・プリバーセック副党首らと会談。その後、連邦議会の上院委員会室で労働党と緑の党を中心とした超党派の上院・下院議員に対し「福島原発事故と日豪のウラン貿易」をテーマとした講演を行い、さらにオーストラリア国立大学(ANU)主催の公開イベントで基調講演を行った。翌日には緑の党のクリスティーナ・ミルン党首とオーストラリアの市民団体「ソーラー・シチズン」が国会議事堂前で開催した再生可能エネルギーへの政府の支援を求める集会に飛び入りで参加した。


過密スケジュールの中、26日夜にはANUで基調講演を行った(撮影:馬場一哉)

28日にはブリスベンへと移動。「オーストラリア環境保護基金(ACF)」のジェフリー・カズンズ代表、クイーンズランド州労働党のアナスタシア・パラチェック党首、ティム・パラチュック副党首らと会談を果たした後タウンズビルへ。州北部環境協議会とウラン採掘に反対する市民グループが主催したフォーラムで講演を行い、今回のオーストラリア訪問を締めくくった。

菅氏帰国後の9月11日、吉田調書(事故当時、福島第一原発の所長であった故・吉田昌郎氏が、東日本大震災当時の事故対応について受けた聴取の内容)を始めとした事故当時の政府関係者の調書が正式に公開された。それに伴い当時の対応について再び批判の矢面に立たされている同氏だが、自身のブログでこう反論している。

「私に批判的なマスコミは、当初は吉田調書をもとに、私と吉田所長の対立をあおろうとする意図を持った報道が多かった。(中略)今度は池田調書での証言をもとに、『怒鳴った』というイメージを強調する報道が増えてきている。イメージではなく、事実をきちんと押さえ、事実関係について両説がある場合は両方の意見を報道すべきだ。そして報道関係者はもっと声を大きくして、公開されていない東電関係者の調書と東電のテレビ会議の全面公開を要求すべきだ」

8月26日にANUで行われた講演では参加者からの質疑応答に答える形で「当時の東電会長や社長、幹部の調書のほか、東電のテレビ会議の記録もすべて公開すべき」と同様の意見を主張していた。

記者はANUでの基調講演が行われた26日にキャンベラ入りし、講演を拝聴。そして翌日、旧国会議事堂内のカフェで時間をいただきインタビューを敢行した。オーストラリアを巡り、菅氏が何を思ったか。震災から3年半のこのタイミングで何を語るか。早速インタビューの内容を紹介していこう。

左:カカドゥ国立公園ではレンジャー鉱山を所有するアボリジニのミラル族の代表、イボンヌ・マルガルラさんと面会。彼らの土地に対する考え方に感銘を受けたという 中:新聞で見かけたことをきっかけに石巻市の相沢寿仁君に心温まる手紙を送ったアシュウィン君 右:パース市で建設が予定されている波力発電所の研究を進めるカーネギー社にも視察に訪れた(撮影:郡山昌也)

土地とともに生きる責任

──震災時、私(記者)は東京でやはりメディアの仕事をしていたのですが、当時は報道の現場におらずもどかしい気持ちで日々を過ごしました。その後、2011年秋に渡豪し、国外にいるからこそできることもあると考えこの連載を開始、これまで20回続けてきました。被災者の立場に寄った記事から、原発推進側の立場、支援者、また取材者などいろいろな人々の意見をフラットに紹介し、多角的に問題に向き合える情報を提供することを目指しています。そんな中、今回、日本を離れ、遠くオーストラリアの地で時の総理であった菅氏にインタビューできる機会をいただいた巡り合わせにたいへん感謝しております。それでは早速始めさせていただきます。まず今回の来豪の目的を教えてください。

「東日本大震災、そして福島第一原発事故が起きた時、総理大臣という立場にあった人間として、あの事故がどういうものだったのかを伝えることを常日ごろから意識しています。これまでも第四原発で話題の台湾や、原発建設の動きを見せ始めているポーランドなど、さまざまな国に行きました。福島第一原発事故がどういったものであったか、そして現状、どういう状況にあるかを伝えることが当時、総理であった私の責任だと考えています。今回、オーストラリアには環境団体に呼ばれる形で来ましたが、オーストラリアの人々にも私の経験を伝えたいという思いがあったので良かったです」

──福島第一原発ではオーストラリアで採掘されたウランが使われておりましたがそのあたりの事情に関して来豪前にはどの程度ご存知でしたか。

「はっきりと認識したのは、今回こちらの議会でそのことを質問し、それが確認された時です。ダーウィン、パースでも先住民の人々と話す機会があったのですが、皆さん、自分たちの土地から採掘されたウランが福島で使われ、その原発が事故を起こしたことを申し訳なく思うとおっしゃっていました。その言葉に感激をするとともにショックを受けました。

我々の感覚で言えば、日本が、東電が必要として買ったものなのですからそれを使った原発が事故を起こしたからといって、それはあくまで日本の責任、東電の責任で、採掘された場所の先住民アボリジニの方たちの責任ではないわけです。しかし、自分たちの土地からのウランで事故が起きたことを彼らは非常に申し訳なく思っており、その感覚に私は感銘を受けました。そしてどういうことなのだろうと自分なりに考えました。我々の場合、財産として土地を所有するわけですが、アボリジニの方たちにとっては、我々の認識する所有とは異なり、その土地と一体に生きる、その土地と自分が一体であるという意識が強く、何万年にわたって土地と一体となり、持続可能な生活をしてきたという意識がある。それがあるから自分たちの土地で採掘されたウランが使われたことに関して反省をするのだと思います。自分たちの一部が原因で事故が起きたと認識するわけです。この点に関して私も深く考えさせられました」

──土地を大切にする分、土地を追い出されてしまった状況にいる福島の人々の悲しみなどにも深い理解を示しているのかもしれないですね。

「はい。以前、飯館村の酪農家・長谷川健一さん(編注:2013年4月号に、当時来豪した長谷川さんらの対談記事を掲載。こちらから閲覧可能)とお会いしていろいろ話をしましたが、酪農の仕事に携わっている方はアボリジニの皆さんと感覚がやや近いように感じられました」

──興味深いですね。

「よく一般的なあいさつの際に『自分たちの土地に来てくださって歓迎します』というような言葉が交わされますが、彼らの場合、その意味合いが深い。自分たちとともに生きてきたその土地、その地域に来てくれたことに対して根源的な部分で深く感謝しているのだと思います。我々はどうしてもウランをはじめとしたエネルギー資源が取れるというような経済的な面で土地の価値を考えてしまいますが、アボリジニの方々にとってそういった意味での財産という感覚はありません。これは今の我々が持っていない、あるいは、なくしてしまった1つの感覚なのかもしれないと感じました」

「皆の納得する絵を描くのは難しい」

──今現在、福島には自分の家に帰れずにいる人々がまだたくさんいます。先日福島からシドニーに保養に訪れた子どもたちも(編注:2014年9月号参照。こちらから閲覧可能)帰りたいけど帰れない、国は何もしてくれないというようなことを口にしていました。

「汚染の問題というのは、地震や津波そのものによる被害とは性格が異なります。地震、津波でも大勢の方が亡くなりましたが、その後はだんだんと復興していきます。しかし、放射能汚染は簡単に解消されることはない。除染をやっても場所を移すという作業に過ぎず、放射能自体をなくせるわけではありません。そういう意味では非常に長い間、経済的な負担だけではなく精神的な負担も含めて重いものを残すことになります。被災地には、主に福島、宮城、岩手があるわけですが、被災後に自殺した方も少なくありませんでした。それでも福島以外の被災地ではだんだん自殺をする人が減っていきました。しかし、福島の原発事故で汚染された地域に関しては自殺する人の数がだんだんと増えているというデータもあります」

──先行きが見えない状況に徐々に絶望感を募らせていくと。

「これから先事態がどう動いていくか、その答えが見い出せない。それがどれほど深刻なことなのかということです」

──現在、安倍政権では汚染水の流出をコントロールしていると言っていますが、素人目でもコントロールできていないのではないかと思えてなりません。そのような状況下で待ち続けるのも精神的にかなり厳しいと察せられます。

「今現在も1〜3号機では冷却水を注水し続けています。しかし、穴が空いてますからそこから水が漏れるわけで、それが汚染水となります。タンクに入れて保管しているとは言うけれども実際は相当量が地下水に混ざっており、とてもコントロールされている状況ではないというのは専門家も認めていることです。そんな状況下、果たしてそれぞれの人が自分の土地に帰って来られるのかと。この問題は非常に重いです。

これは、科学的にこの線まではOK、この線からはNGとはっきり決められない問題です。強い線量の場合は直接命にかかわるのである意味判断も付けやすいですが、低い線量に関しては、ガンの発生率が多少上がるというような被害になります。そのため、人生の残り年数の少ない高齢者の方には、将来の発生率よりも自分が生活していた場所に戻りたいという気持ちを強く持つ方が多いわけです。一方、子どもを持っているお母さんに関しては、放射性物質の影響を受けやすい子どもを遠くに移したほうがいいということで、実際に移住されている方もかなりおられます。

低線量被ばくの場合、置かれている立場によって判断が変わりますし、ここは危ない、ここは除染すれば大丈夫など、第3者的な観点だけで決めきれません。自治体としては人がいなくなると成り立たなくなるため、除染を進めるわけですが、これも実際には放射性物質の場所を移すだけで、その処分に関しては答えが出ていません。矛盾がいろいろな形で折り重なっていて、私自身も皆が納得する絵が提案できない、描ききれないというのが正直なところです」

科学技術、そして政治家

──ご自身が首相をやられている時に大変な災害、事故が起こり、その後、指導力に関していろいろと非難もされました。3年以上経った今どう振り返りますか。やりきれたのか、あるいはやりきれなかったのか。


質疑応答では参加者から「原発交付金をもらえるため自治体は再稼働したいという話があったが、これは電源施設周辺知地域整備法によるものなのか。そして交付金の出所は」など専門的な質問も飛び交った(撮影:馬場一哉)

「私は実は核という問題について学生時代から問題意識を持っていました。アインシュタイン博士や湯川秀樹さんなども参加していたパグウォッシュ会議(編注:すべての核兵器およびすべての戦争の廃絶を訴える科学者による国際会議)にも当時から深く関心がありました。当時、核に限らず科学技術は人間を幸せにする一方、不幸せにする可能性もあり、それをコントロールするのが政治だと考えていました。私が政治家になろうと考えた原点は、この科学技術の持っている二面性のマイナスの方をいかに抑えられるかということへのチャレンジがありました。しかし、今考えると反省しなければいけませんが、原発に関しては日本の科学技術のレベルは高く、そう大きな事故は起きないだろうと、私自身安全神話に毒され、影響されていました。3.11以前、私も原発とは注意深く安全性を確認しながら付き合っていけばいいと、今の安倍首相と同じようなスタンスでいたわけです。

しかしながら事故が起き、場合によっては5,000万人の人が避難しなければいけないという瀬戸際までいきました。このような最悪の事態にならなかったのはただ単にいくつか幸運な偶然が重なったからに過ぎません。1つの事故で5,000万人の避難者が出るなどという可能性は、私はほかには戦争以外にないと思います。そのリスクを覚悟して原発を使うのか、あるいはやめるのか。そう考えた時、私は180度、考え方を変えました。

事故が起きた時、もっとも深く考えたのは事故が拡大した場合のことです。チェルノブイリの場合はソ連軍の軍人を動員し、石棺を作るためにセメントを近くまで運び、それによって急性被ばくで相当の人が亡くなりました。拡大を抑えるために必要だけど命の危険性がある、というような場面でどういう判断を下すべきか、ぎりぎりの場面で判断をするのは総理、別の言い方をすれば、原子力災害対策本部長以外にはできません。ですから私はそのことをずっと考えていました。

幸いにして、非常に高い線量のところに死を覚悟して行ってもらうような場面はありませんでしたが、どこまで頑張るべきかということはつねに考えていました。東電の撤退問題があった時にぎりぎりまで頑張ってくれという趣旨の発言をしたのもそういったことをずっと考えていたためです。私にとってはその決断が一番重かった」

──撤退の問題に関しては全撤退なのか、一部撤退なのか。誰がそれを口にしたのかなど、いろいろと物議を醸しました(編注:9月28日現在、吉田調書により事実関係はかなり明らかになっている。詳細は内閣官房のホームページ内「政府事故調査委員会ヒアリング記録」を自身でご確認いただきたい)。いずれにせよ、現場を離れさせるわけにはいかないという判断でしたね。

「これが火力発電所など、ほかのプラントであれば例えば火事が広がる中、いったん撤退して、燃えるものが燃え尽きてから戻るというようなことがあり得るわけです。しかし、原発というのはいったん撤退したら下手すれば10万年待たなければいけなくなるわけです。そんな中、いったん撤退し、戻ると言っても状況は極めて厳しい。そういうことも含めてぎりぎり頑張ってくれと言ったわけです。私は東電本店が撤退を考えたことを非難したわけでは全くありません。現場の人命を考えれば当然のことです。しかし、撤退後にどうなるかを考えなければならない。それによって首都圏を含め5,000万人の人が避難しなければならない状況に確実に近付くからです」

電力会社との関係性


市民団体「ソーラー・シチズン」が国会議事堂前で開催した再生可能エネルギーへの政府の支援を求める集会にも飛び入りで参加した(撮影:馬場一哉)

──現在、国内の原発は全機停止中ですが、最初に停止をした中部電力・浜岡原発は政府主導で止めました。こういった動きに対し、電力会社や財界からの圧力などもあったのでしょうか。

「民主党政権前の野党時代に経団連と話をした際、再生可能エネルギーについて当時の経団連副会長から風力や太陽光などは変動が大きすぎて使い物にならないと猛烈に反発されました。その時の経験から、電力会社はこれらを非常に嫌っているのだと知りました。私自身は電力会社の大きなサポートを得るような立場ではありませんでしたから、逆に言うと電力会社のことを考えて判断を手加減したなどというようなことは全くありません。

浜岡の場合は地震の可能性も非常に高い場所ということで停止を考えたわけですが、政府が法律的に止める権限は持っていません。事故を起こした原発については、政府には電力会社に対する指示権が発生するのですが、中部電力は事故を起こしていませんのであくまで要請という形で停止をお願いし、それを受け入れてくれたということです。こういった経緯を通して電力業界が私に対してある種、危機感を覚えたというのはあっただろうと思います。

電力業界、そして一部、当時の経産省では、浜岡は止めるけどそのほかの原発はすぐにでも再稼働させるというシナリオを描いていました。そこで誰がそれを判断するのかと経済産業大臣に聞いたところ、原子力安全・保安院(編注:2012年9月廃止)だと言います。しかし、福島第一原発事故を防ぐことができなかった保安院に単独でそういうことをやらせるのはどう考えても国民の理解を得られない。そこで再稼働の条件を厳しくしました。その後、再稼働の条件がクリアできず今も全て止まっています。電力会社は再生可能エネルギーに積極的に取り組まず、一方でオール電化、そして原発をあまりにも強く打ち出し過ぎたと思います。私はそれを変えなければならないという立場でその後の活動を行ってきました」

──浜岡原発を止めたことに関連して、米軍の基地が近いことから米国から要請があったという話もささやかれていますが、そのあたりはどうなのでしょう。

「それは全くありません。当時の海江田経済産業大臣が5月5日にあくまで自己判断で視察に行き、6日に私のところに来て相談を受けたというのが経緯です。大臣の視察と上申があったことから、政権としてはスムースに要請して止めることができました。アメリカから要請があったというようなことは全く聞いていません」

政権から離れた立場

──今現在、政権を離れたからこそ、できるようになったことはありますか。

「常に両面ありますね。政権にいた時に行った最後の大きな仕事は太陽光発電をはじめとしたエネルギーの固定価格買い取り制度です。これはやはり野党ではできません。電力業界は3.11以前、これにものすごく反対していたのですが、その法案が通らなければ政権は手放さないという姿勢を示しましたから結果として導入につながり、この2年くらいの間に効果を上げています。当然ながら政権を持つことで非常に効果的な政策転換ができます。

一方、政権が自民党に戻った現在、いろいろな国や地域で話を聞いたり、自分の経験を話したりすることができるようになりました。現職の総理の場合はひと言ひと言があらゆる意味で影響を持ちますからどうしても慎重になります。そういったことから、当時もいろいろ批判はされましたが、ストレートに反論はしていません。私の妻は『原発を作ったのは一体誰なのか問いなさいよ』などと言っていましたが、原発を54機作ったのは自民党政権ではないか、そう思ってはいても現職の間はさすがに口には出せません。そういう意味では政権を離れた中で自由に発言できるようになっているのは確かです」

──現在、自民党政権の向かっている方向性について元総理としてのご意見をお聞かせください。

「少なくとも再生可能エネルギーを促進することについては、幸いにして現政権もその方針は受け継いで進めると言ってくれています。オーストラリアに来て、今のアボット政権は再生可能エネルギーの目標を白紙に戻すと言っているそうですが、それだけは真似ないでほしいと強く願います。また、原発に関して言えば、私はもちろんなくすべきだと思っています。事故はいつかどこかで起きますし、原発事故が絶対に起きないという状況は原発をなくさない限りあり得ません。事故が起きた時に国民が本当に安全に逃げることができ、そして安全に戻ることができるのか、そこに目をつぶって経済的な理由で推進しようとする道は取らないでほしい。

最近、電力会社OBの人々も発言を始めています。自身の現役時代には皆、利害関係を考えながら企業や組織の利益を追求します。これは政治家も経済人もそうでしょう。しかし、リタイアした後は自分の問題ではなく、子どもや孫のことを考えるようになります。そうなると反省の弁を述べる人が増えます。自民党の小泉さんや細川さんも現職の時は原発を推進していましたが、事故を受けて間違っていたということを言っています。そういう長い目で、次の世代、さらにその先の世代までを見据えた政策をきちんと取ってほしいと思います」

日豪の友好関係

──かなり多忙なスケジュールでオーストラリア全土を移動しましたが、今後の糧になるものは得られたでしょうか。

「先住民アボリジニの皆さんがおっしゃる土地の概念にはやはり考えさせられました。大飯原発の再稼働に関する福井地裁の判決で、国富流出に関して裁判官が『国豊というのは国民が自分の国の中で安心して生活できること』と言っていましたが、経済をはじめ、今後のことを考える時には短期的な利害だけではなく、長期的に国民が安心して生活できる方法を考えなければならないと思います。今回のオーストラリア訪問で先住民の皆さんの考え方に触れたことで強く感じるものがありました」

──オーストラリアで暮らす大勢の日本人の中には震災が起きた時に何もできなかったことをもどかしく思った方も大勢いらっしゃいます。最後に、在豪の日本人に向けてひと言いただければと思います。

「日豪の友好関係は、日本にとって非常に貴重で
大切な財産だと感じています」

(撮影:郡山昌也)

「日本とオーストラリアは距離は離れていますが、非常に親密な国で、かつ、いろいろな面で対照的な国だと思います。オーストラリアに住み、仕事をしている日本人の皆さんには、オーストラリアの大らかさ、良さというものをぜひ日本の、被災した方などにいろいろな形で伝えてもらいたいなと思います。今後、大震災が再び起こり、大勢の日本人が避難しなければならないような事態になった時は、もちろん、そんなことにならないようにしていかなければなりませんが、オーストラリアへという選択肢もきっとあるでしょう。日豪の友好関係というのは日本にとっても、深い意味での財産というか、そういうものだと改めて感じてました」

(2014年8月27日、旧国会議事堂内で)

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