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歌人・三原由起子さんインタビュー(2)―原発問題を考える㉖

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ルポ:シリーズ・原発問題を考える㉖

「なかったことにされたくない」

歌人・三原由起子さんインタビュー②

世界有数のウラン輸出国として原発産業を支えつつ、自国内には原子力発電所を持たない国オーストラリア。被ばく国であるにもかかわらず、狭い国土に世界第3位の原発数を誇る原発大国・日本。原発を巡る両国のねじれた構造を、オーストラリアに根を張る日系媒体が取り上げないのはそれこそいびつだ。ルポ・シリーズ「原発問題を考える」では、原発を取り巻くさまざまな状況を記者の視点からまとめていく。 取材・文=馬場一哉(編集部)

2020年東京五輪・パラリンピックのメイン・スタジアムとなる新国立競技場の総工費が2,520億円まで膨らんだことで大きな騒ぎとなった。1,000兆円を超える債務に苦しんでいる日本がなぜ巨額の税金まで投入してスタジアム建設を推進するのか、その予算を捻出できるのであれば被災地の復興に回すべきなど各方面からの批判はあとを絶たず、安倍晋三首相はたまらず計画を白紙に戻すと宣言した(7月17日現在)。

その展開を見守りながら、箱物行政に慣れきっている国民性ゆえ決定したのであれば仕方ないとしてそのまま進んでしまうのではなかろうかと当初記者は危惧をしていた。幸いにもそうはならなかったがその危うさは原発問題にも通底しているものと感じている。経済優先を理由に再稼働もやむなしという流れは、新国立競技場の問題や新安保法制の衆院通過などのニュースの陰に隠れているが未だ既定路線であろう。

福島第一原発の汚染水処理の問題に関しても同様だ。どう考えてもコントロールはできていないように思えてならないが、以前に比べさほど問題にならなくなってきているように感じられる。

実際、7月16日には降雨の影響で汚染水が流出したが「またか」という冷めた反応が一般的ではなかったか。人間は状況に慣れていく生き物であり、それは生きていくためには必要な機能だ。だが、慣れていったとしても声だけは上げ続けなければいつか皆、次に何か起きる時まで忘れてしまうのではないか。

前回よりインタビューをお届けしている歌人・三原由起子さんもインタビュー中に声を上げることの重要性を口にしていた。風化させぬため我々メディアが良識を持って伝え続けなければならないとすれば、当事者もまた声を上げ続けなければならない状況まできているのだ。早速、彼女のインタビューをお届けしたい。

真っ赤に染まるふるさと

(前回からの続き)
──地震が起きた3月11日当日、三原さんはどこで何をされていましたか。

「私は東京で新しい職に就いたばかりだったので、まだ馴染んでいない職場の人たちと避難したのですが、目の前にiPadを持った男の人がいてその画面が見えたんです。画面にはちょうど震度によって色分けされた日本地図が映っていて、反射的に福島県を見ると真っ赤に染まっていました」

──三原さんの歌集『ふるさとは赤』の帯にも書かれていた「iPad 片手に震度を探る人の肩越しに見るふるさとは 赤」はこの時の様子を詠ったものですね。

「そうです。その後、何とか実家と連絡を取ることができ、父に『すぐに避難して』と言ったんです。まだ事故は起きていませんでしたが、私が浪江に住んでいた時に、震度5の地震で放射能が漏れたということを記憶していたので、原発の被害が気になっていました。しかし父は『それよりも店の中がグチャグチャで、片付けに1週間はかかるから無理』といった調子でした。地震や津波の被害が大きかったので、原発のことを考える余裕がなかったのかもしれません」

──しかし結局、避難を余儀なくされてしまった。それ以降、一時帰宅以外では戻れない状況になってしまったわけですが三原さん自身が初めて自宅に戻られたのはいつでしたか。

「震災から3年近く経った14年の1月です。昔書いていた日記や幼いころのアルバムなどを取りに行きたいというような気持ちもありましたが、それ以上に自分の実家が今どうなっているのか、浪江がどうなっているのかを自分の目で確かめなければという思いが強かったです。受け入れなければならない事実があまりにも大きすぎますが、受け止めなければと思いました」

いま声を上げねば

──震災前後で三原さんの歌も大きく変わっているように感じます。

「11年3月11日以来、震災や原発事故のことを考えない日はありません。ずっと福島のことを頭の中で考え続けながら東京での生活を送っています。ふるさとの状況を憂いているのは16万人(当時)の避難者だけではありません。地元を離れながらもふるさとを心の拠り所に頑張っていた被災地出身者も皆同じような思いを抱いているのではないでしょうか。『忘れてほしくない』と言う人はたくさんいますが、私は忘れるどころか、なかったようなことになってしまう怖ろしさを感じています。そうならないためにも当事者が言葉を発していかなければなりません。『いま声を上げねばならんふるさとを失うわれの生きがいとして』。この歌はそんな決意を込めて詠みました」

──被災者、福島出身者とひとくくりにされることも多いのではないでしょうか。

「はい。福島県は広い土地なので、特にひとくくりにできないですし、皆それぞれ違った考え方を持っていますよね。食べ物に関しても福島のものは食べないという人もいれば、放射線量を測っているから大丈夫という人もいます。福島だけの問題ではないのですが、そもそも原発事故前から比べて国が基準値を上げている現状で、基準値以内であるから大丈夫という考え方はどうなのだろうと思います。国には国民に誠実に対応してほしいです」

──たくさんの情報がある中、結局は自分で判断するしかないのが現状です。

「そうですね。スーパーでは九州産のものを選んでしまう自分もいる一方で、福島の物産展などでは福島のお米や野菜を買って食べたりもします。自分のそういう感情をどう処理すれば良いのか分からないこともありますが、農家の人が誠実に放射線量を測って努力しているのを目の当たりにすると、頭ごなしに危ないと言って避けたくはないんです」

──苦しいですよね。

「放射能汚染を気にすることなく農産物を食べることができた幸せを原発事故後に身にしみて感じました。その土地のかけがえのない豊かな自然が、原発事故によって失われてしまったんです。貧しい町だから原発を再稼働するしかないなどと思い込んでいる人もいると思いますが、その土地ならではの特性としっかり向き合って学んでいくことで、国に言われるがままではなく、自らの土地の活用法を考えられると思います」

日本政府、東京電力

──政府や東電に対して訴えたいことはありますか。

「土地を汚染して避難者を産む状況が起きたにも関わらず、原発を再稼働しようとしたり、海外に原発を輸出しようとしたり、各地域でさまざまな問題が起きているにも関わらず、解決策を導き出さないことに深く疑問を抱きます。それぞれの土地に対立軸を作ることで別の問題に目を向けさせて、本来の問題から目をそらさせようとしているようにすら感じます。例えば『除染をしても意味がないから除染作業なんていらない』という議論が立ち上がると『じゃあそこで働いている人はどうなるんだ』という形になってしまう。また自主避難している人と強制避難している人の間でも諍(いさか)いがあります。いわき市民の友人の1人に『いわき市民だから自主避難しなきゃいけない。双葉郡民は補償金が出るのだから、双葉郡民だったら良かったのに』と言われ、お互いに嫌な思いをしたこともありました。身近なところでストレスが溜まっています」

──汚染水の処理に関しても先が全く見えない状態の中20年の東京オリンピック開催に向けて動いています。たしかに被災地はもう大丈夫という既成事実を作って動き出しているようにも見えます。

「福島の問題はもう終わったかのように思われていますよね。実際に甲状腺ガンになった人の数も公表されているのに、『原発事故後、体に異変が起きた人は自分の周りにはいない』とムキになって過剰に否定する人もいます。それによって、実際に異変が起こっている人が声を上げられないような雰囲気にもなっています」

──「風評被害」という言葉が独り歩きすることで、実際に害があってもないことになってしまう恐れもありますよね。

「はい。実害を受けた人を封じ込めようとしているように思います。『風評被害』という認識を広めることで実際の問題から目を逸らさせているように感じます。マスコミは、3年、5年目といったような節目の時だけ被災地の様子を取り上げますが、その合間にも毎日と言っても過言ではないくらいに人々はさまざまな問題や苦悩を抱えています。丸4年以上経っていますが、何も終わっていないんです」

──「原発の話題に触れればその人のほんとうを知ることはたやすい」という歌も詠まれていますが、やはり原発の話題は人物を浮き彫りにすると。

「リトマス試験紙のようなものだと思いますね。震災後に人間関係もいろいろ変わりました。『自分は原発で働く側の人間にならないから』と原発再稼働に賛成している人もいますよね。他人に対する思いやりや、物事への想像力がはっきりしますね」

──そういった現状も含めて歌人として三原さんでなければ伝えられないものが数多あると思います。「沈黙は日ごとに解(ほど)けていくように一人ひとりと声を束ねて」という歌もその1つですね。

「福島では周りの目を気にして声をあげられずに、沈黙せざるを得ない人も多いと思います。だけど、勇気を出して少しずつ声を上げていこうというメッセージを込めて作りました」

途絶えてしまった暮らしと歴史

──今後、どのような願いを抱きながら詠い続けていくおつもりですか。

「日本の中の少数派になった者として、なかったことにされないように現実と向き合って言葉にしていかなければと思っています。再び原発事故を起こさないためにも『こういう人たちがいた』という事実を残さなければなりません。たとえ避難が解除され、町に戻って生活したとしても、以前の暮らしに戻れるわけではありませんし、本来その土地が持っていた自然豊かな暮らしと歴史は途絶えてしまいました。今までの歴史を学び直しつつ、現実と向き合って表現し続けていきたいと思います」

──オーストラリアに住んでいる日本人に向けて伝えたい思いはありますか。

「福島の原発事故を忘れないでほしいですし、いざ何かあった時には受け入れてほしいと思っています。万が一のことがあった場合は日本の住民をオーストラリアで受け入れてもらえるような、それくらいの危機管理を日本政府にはしてほしいと思います。オーストラリアにはさまざまな人種の人たちが暮らしていると聞きます。だからこそ、違う価値観を受け入れる寛容さがほかの国よりもあるのではないでしょうか。万が一のことが起きないようにと願っていますが、その可能性も視野に入れながら生き抜いていかなければならないと思っています」
(了)


三原由起子
1979年生まれ。福島県双葉郡浪江町出身の歌人。ふるさとへの思いを「短歌」「音楽」を切り口に伝える多彩な活動を展開し、2013年には第一歌集『ふるさとは赤』(本阿弥書店)を出版。第48回福島県文学賞短歌部門青少年奨励賞受賞(95年)、第1回全国高校詩歌コンクール短歌部門優秀賞(97年)、第44回短歌研究新人賞候補(01年)、第24回歌壇賞候補(13年)、短歌同人誌「日月」所属

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