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500人以上の日本人がオーストラリアで死を選択した理由 ーカウラ集団脱走事件を知っていますか?

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*2024年8月、カウラブレイクアウトから80年を迎えた。本記事は2012年9月に掲載されたコラムだが、時が経ってもカウラブレイクアウト事件の全容が変わることはない。80周年の節目ということで当時の新人編集部員(馬場一哉=現日豪プレス代表)執筆のコラムを再掲する

カウラ・ブレイク・アウト記念日式典「カウラ・ユース・バス・ツアー」同行記

彼らはなぜ、自ら死を選んだのか、あるいは選ばざるを得なかった

「俺たちは死ぬために脱走したんだ」

 テレビのスピーカーから聞こえてきた台詞に耳を奪われる。その時、僕は大勢の子どもたちとバスの中で席を並べていた。バスはシドニーから西に車で5時間ほどの町カウラに向かっており、車内では「カウラ大脱走」のドキュメンタリー映像が流されていた。

 英語でカウラ・ブレイク・アウトと呼ばれるこの事件は、1944年8月5日、第2次世界大戦中、今はのどかなカウラの町で起きた凄惨な事件だ。

 その日、500人以上に上る日本兵捕虜が決起し、オーストラリア連邦捕虜収容所からの脱走を試み、そしてその多くが命を落とした。死者数は235人(日本人231人、オーストラリア人4人)。史上最多の犠牲者を出した脱走事件として敢然と歴史にその名を刻んでいる。

 脱走の際、機関銃を装備したオーストラリア兵に立ち向かう武器として彼らが用意したのは野球用のバット、スプーン、フォーク、そして自決用の安全カミソリなどお粗末なものだった。もとより勝とう、相手を打ち負かそうなどとは考えていなかったのだ。

戦後は、カウラの退役軍人会によって手入れをされてきた日本人墓地

 テレビの中では老人が話し続けていた。彼はカウラ大脱走の生き残り、かつての日本兵捕虜だ。

「なぜ、あまりにも無謀な脱走を実行してしまったのでしょうか」

 インタビュアーの質問に、老人は静かにこう答える。

「そうするしかない空気だったんだよ」

体の中に流れている日本人としての血

 今回、僕が同行したのは、シドニー在住の日系人家庭の子どもたちが参加するカウラ・ユース・バス・ツアー(主催:浄土真宗本願寺派オーストラリア開教事務所、NPO国際ユース基金、後援:シドニー日本クラブ)だ。

「悲しい歴史を繰り返させないためにこの事件を若い世代に伝えたい」という主催者たちの想いを受け、一部保護者を含めた総勢40人が参加。運営資金は寄付金によってまかなわれ、事件の起こった8月5日に開催されるカウラ・ブレイク・アウト記念日式典に子どもたちを参加させることを目的としていた。

 日豪プレスの編集部員として、日豪関係史の中でひときわ異彩を放つこの事件は、知っていて然るべきことだ。だが、恥ずかしながら僕が知っていたのは“ムカシ、カウラデ、ニホンヘイガ、タクサン、ナクナッタ”というただの記号に過ぎず、結局のところ何も知らなかったに等しい。その背景に何があったのか、それを考えようとすらせず、字面だけを頭に入れ、知ったような気になっていた。

 だからこそ、というわけではないが、僕の心構えもまた、事態をそれほど理解せぬままに参加した幾人かの子どもたちに近かったと言えるかもしれない。カウラに向かうバスの中では、カウラ大脱走にまつわる多くの映像が次々と流され(何せ往復10時間である)、初めて知ったさまざまな事実を真綿のごとく頭に吸収し、結果、僕は深く思索にふけることになった。

 なぜ、大勢の命が無残に奪われねばならなかったのか。無謀な自殺行為を回避するすべはなかったのか。そして、日本人とは何なのだろうかと。

 脱走が決行されたその同じ日に、僕らはカウラに関する知識を蓄えながら現地に向かったわけだが、その成果は素晴らしく、「今、この事件の本物の舞台に向かっているのだ」と、いやがおうにも気持ちは引き締まった。ツアーの主催者であるNPO法人国際ユース基金の松村青空さんは言う。

「実際にドラマなどの映像を観て、それから現地に行くというのは、子どもたちにカウラのことを知ってもらう一番の方法だと思ったんです」

 午後2 時、バスはカウラの墓地に到着。カウラ市当局、カウラRSL、カウラ・ブレイク・アウト協会の人々に出迎えられ、ともに公式の追悼式典に参列することになった。日本側からは、防衛駐在官一等海佐の伊藤拓也氏、在シドニー日本国総領事館副領事の田中紀子さんが訪れ献花をした。バスの中でドラマやドキュメンタリーを観てきたこともあり、子どもたちも、式典中、神妙な面持ちで参加していた。オーストラリア兵士の墓地での式典後、日本人墓地へと移動。浄土真宗本願寺派オーストラリア開教事務所の渡部開教使の読経後、参加者1人ひとり焼香を行った。

 ツアーに参加した大和瑞希さん(12歳)は「日本人が捕虜だったとは知らなかった。本当に悲しいことだし、いろいろと深く考えさせられました」と感慨深げに語ってくれた。また、保護者として参加の湖城修一さんは「お墓に刻まれた日本人の名を見て、これがあって今の日本があるのだとつながりを実感しました。子どもと一緒に来られて良かったです」と満足げな様子だった。

 法要を終えた一行はカウラ第12戦争捕虜収容所跡地を訪れた。今はだだっ広い草原となっているそこでは、かつて数多くの捕虜たちが生活をし、故郷に帰ることなく亡くなったのだ。思いに耽っていると、隣で同じように草原を眺めていた渡辺開教使が言う。

「自分が英語だけではなく日本語を話せることや、自分に流れている日本人の血を子どもたちはどう受け止めているのでしょう。日本人がどういう歴史を培ってきたのか。昔の日本人は何を思い、何を考えていたのか。これからも知っていってほしいですね」

 眺めやる視線の先で子どもたちはただただ元気に草原を走り回っていた。

死を決した日本人捕虜が駆けたブロードウェイ(写真:植松久隆)

知らない理由、知らされていない理由

 カウラの大脱走は、近年ドラマが作られるなど、徐々に認知度は増してきているものの、日本では全くポピュラーではない事件と言っていいだろう。

 だが、この事件はただのステレオ・タイプの脱走事件ではない。収容所の環境は申し分ないほど恵まれており、昼間は皆で野球を、あるいは相撲、麻雀などのレクリエーションを楽しめた。また、食事には日本人向けにわざわざ魚が振る舞われることもあったという。収容所内は民主主義的に統治されており、監視のオーストラリア兵は親切だった。少なくとも“過酷な環境に耐え切れず自由を求めて脱走した”ということはあり得ない環境だったそうだ。

 ではなぜ、死を賭して彼らは集団で脱走を行ったのか(脱走へ至った経緯は次ページの「作品とともに振り返るカウラ大脱走事件」を参照)。当時の日本独自の軍国主義を前提とした上で、僕は日本人の集団主義的なメンタリティーが影響していたのではないかと考える。脱走するか否かは多数決によって決められた。その際、「脱走し、死すことこそ帝国軍人の鑑」という一部の強い意見に、「われも、われも」といやおうなく飲み込まれてしまったのではなかろうか。出るくいは打たれ、どんぐりの背比べ的文化を特徴とする「NOと言えない日本人」集団の中において、「それでも俺はやらない」と和(そして輪)を乱し、異を唱えることはできなかったのではなかろうか。

 カウラ大脱走は、捕虜が日本人でなければ起こりえなかった類の特殊な事件であり、われわれ日本人のメンタリティーの根幹を深く考えさせられる非常に重要な事件の1つとして、広く知られるべきものだと僕は思う。それにもかかわらず、あまりに知名度が低い理由の1つには、かつて、捕虜が存在していた事実を国がひた隠しにしたという事実が挙げられる。

「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」

 第2次大戦当時、陸軍大臣・東条英機が記した軍人として取るべき規範を記した文書「戦陣訓」の中にある有名な一節だ。

 捕虜になることは最大の屈辱という価値観が厳然とまかり通り、捕虜になるくらいならば死ぬことが奨励されていた。戦死はすなわち英雄になることと同義であった。

 そして、国は「帝国軍人に生きて捕虜になる者などいない」と定義し、捕虜の存在そのものを消してしまった。捕虜が存在しなければ脱走事件など存在するわけもない。事件は明るみに出ることなく、葬り去られようとしたのである。実際、既に公然の事実となった現在でも日本の歴史教科書にカウラの大脱走について書かれた個所はないという。

 欧米の兵士にとって捕虜は国を代表して最前線で戦った“名誉ある英雄”と認識されていたという。そんな彼らにとって快適な捕虜収容所から命を賭して脱走することは全く理解に苦しむ行動だった。だが、日本兵にとって捕虜であることはひた隠さざるを得ない「恥」で、国もまた彼らが戦死したと家族に伝えていた。彼らが身動きの取れない状態にいたことは間違いなく、その状況には同情を禁じ得ない。しかし、それでもなお、何とか自分は生きて日本に帰るのだという意思を、皆で分かち合えなかったのかと悔やまれてならない。

 時代は違うとはいえ、カウラ大脱走は、わずか70年前の日本人が自ら選んだ行動の結果、起こった事件であり、集団自決に近い脱走劇を繰り広げた彼らと同じ日本人としてのメンタリティーは僕らのDNAに今でも厳然と刻まれている。そのことを胸に刻みつつ、今後も僕は「日本人とは?」と問い続けていきたいと思う。

事件の1ヵ月前のカウラ第12戦争捕虜収容所。日本人捕虜が野球を行っている。豪州当局が宣伝のため撮影した(1944年7月1日) Wikimediaより

『あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった』
作品とともに振り返るカウラ大脱走事件

 実在の人物の体験を基に製作され、2008年に日本テレビ系列で放映されたドラマ『あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった─カウラ捕虜収容所からの大脱走─』。カウラに向かうバスの中で観たこの作品には、当時、日本兵捕虜が置かれていた状況が非常に分かりやすく描写されていたので、ここでは脱走へと至った経緯をドラマの内容を紹介する形でお伝えしたい。

 ドラマは、カウラの捕虜収容所跡地を孫(加藤あい)とともに訪れた老人(山崎努)が地べたで泣き叫び嗚咽するシーンから始まる。物語はそのまま回想シーンに移行。快適な収容所生活の中にありながら戦陣訓を守ろうともがく朝倉憲一兵長(小泉孝太郎、老人の若かりしころ)と、美しい妻の待つ日本に帰るために生き抜くことを誓う嘉納二郎伍長( 大泉洋)の視点で物語は進む。

 「生きて虜囚の辱めは受けまい」とたびたび自らの死を望む朝倉に嘉納は言う。

 「けんちゃん、生きてれば絶対いいことがあるよ! だから生きようよ!」

 生きることに前向きな彼の叫びは見る者の胸に深く突き刺さる。

 しかしある日、過激な下士官(阿部サダヲ)が戦陣訓を盾に、日本兵捕虜たちを鼓舞し脱走を提案する。そのプランは深夜に突撃ラッパの音とともに収容所に火をつけ一斉に脱走するというもので、その後のプランは白紙。つまり、脱走中、敵兵に殺されることで帝国軍人として名誉の戦死をすることが目的というわけだ。

 脱走を決行するか否かは投票によって決められることとなった。投票用紙としてトイレットペーパーの切れ端が配られる。「○」と書いたものは決行に賛成。「×」と書いたものは反対。死ぬか生きるかの選択をトイレットペーパー1枚に託したのである。

 当時の日本人社会は捕虜を不名誉としており、彼らの多くも偽名を使い本名は隠していた。もし、本名が知られ捕虜となったことがばれてしまえば家族は非国民の扱いを受け、村八分に合ってしまうからだ。家族のためにも、名誉のためにも死ぬ方が潔し。そう考えた者は「○」と書いた。

 皆が自ら死ぬことを望んだわけではないが、場には「×」とは書けない空気が蔓延していた。そんな中、嘉納はそのグループ内で唯1人「×」と記入し、朝倉を説得する。

「今生きていることは決して恥ずかしいことではない!」

「俺たち生きてて何が悪いんだ!」

 しかし、朝倉は「もうやめてくれ!」と最後まで死ぬ道を選ぶ。深夜2時。多数決によって脱走は決行された。生きて帰りたいと最後まで願い続けた嘉納は射殺され、朝倉は皮肉にも生き残ってしまうのである。

 舞台は現代へ。朝倉は、嘉納の妻を訪問する。前線で名誉の戦死を遂げたとされていた嘉納が実は捕虜であったとは言えないまま、預かった手紙も渡せず何十年も過ごしてきてしまったのだ。

「あの時、生きることを選択したことは死ぬことを選択したわれわれよりも何倍も勇気がある行動だった」

 朝倉は数十年越しの思いをやっと彼女に伝えたのである。

(執筆:馬場一哉)





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