第64回 駅馬車
メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか—。
メルボルンやビクトリア(VIC)、豪州全土で大成功を収めた駅馬車の時代があった。
駅馬車と言えば、米国西部開拓が有名だが、まさに米国からの移民によって始められた事業であった。コブ駅馬車会社(Cobb & Co)は、ゴールドラッシュに沸く1853年に4人の米国人移民によってメルボルンに設立された。社長はフリーマン・コブ。当初の名前は、米国遠距離通信馬車会社で、スピードと革新を社是としていた。
米国人ビジネスマンのジョージ・トレインの資金を使って、コンコルド型など米国製ワゴン駅馬車を輸入した。翌年にはメルボルンからベンディゴ、続いてジローン、バララットなど金鉱山地区へ路線を拡大した。
コブ社の米国式戦略は路線の10~15マイルに駅を設定して、全部の馬を交換して、駅馬車のスピードの維持に務めた。駅にはホテル、レストランを配置し、旅客や馬車の御者には水筒や弁当などの飲食物も提供した。旅客の利便性を高めると同時に収入を多角化した。
コブ社の駅馬車は鉄道と競争する意図はなく、むしろ鉄道路線の拡大に合わせて、補完路線を充実させ、地方の鉄道駅から駅馬車に乗り換えて更に各地を目指す旅客を確保する戦術に出て大成功を収めた。駅馬車の時刻表は鉄道の時刻表に合わせて設定されていた。数年でコブ社は効率、スピード、信頼性で大評判となった。
VIC内陸部の道は舗装がなく、従来の鉄製ストラップを使用した馬車ではかなりの疲労があったが、コブ社は最新の技術を使った革製ストラップで馬車全体をサポートする新型米国製馬車を輸入して、長距離馬車旅行を快適にした。
米国人経営陣は56年にコブ社を売却。61年に米国人ジェームズ・ラザフォードが買収し、VICの郵便配達事業の独占体制を作り、駅馬車路線を確立することで事業は繁栄した
62年にラザフォードは、ニュー・サウス・ウェールズ(N SW)で金鉱が発見されると駅馬車をNSWへ拡大した。
65年にクイーンズランド(QLD)にビジネスを広げた。すぐにQLD全域に路線は広がり、81年には、3000頭の馬を保有し、週に計1000マイルを稼働するQLD最大の駅馬車会社となった。
また、日本でもコブ社は営業を許可され、1869(明治2)年2月、横浜と東京の外国公館を結ぶ乗合馬車の運行を開始、日本初の交通機関となった。駅馬車の路線は、横浜では後に「馬車道」と呼ばれるようになった。
このコラムの著者(文・写真)
イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表。東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営。