【追悼】ブリスベンは工藤壮人を忘れない─日豪フットボール新時代・特別版

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文・写真 タカ植松

 18日、「工藤壮人が集中治療室に入った」との信じられない報せが日本から届いた。彼の現所属J3テゲバジェーロ宮崎のリリースにある以上のことは何もわからないので、とにかく無事を祈るしかなかった。

 3日後の21日深夜、信じたくもない悲報が追い打ちをかけてきた。「工藤壮人、逝去」の文字が所在無げにスマホのページを繰っていた筆者の視界に飛び込んできた。絶句。

 日本代表にまで登りつめたトップフットボーラーの人生は、突如、32年という短さで終わってしまった。彼の太く濃厚な32年、その大半を占めたフットボーラーとしての人生の歩みやエピソードは、その時々に彼を追った様々な書き手がこれから、彼との思いで共に書き綴っていくに違いない。であれば、彼がブリスベン・ロアでプレーするために過ごしたブリスベンでの日々、そこでの生き様も、誰かが書き残してトリビュートするべきだ―そんな思いが、気持ちの整理がつかないままの筆者をキーボードの前に向かわせている。

 長くフットボール界隈を取材してきたが、工藤壮人という選手は、誠実さ、人当たりの良さで言えば、間違いなく、一、二を争う存在だ。今回の残念な報せが届いた後、何人ものこの地での彼と交わった人々に彼との思い出話を聞いた。異口同音、彼の飾らない誠実な人柄を語る人ばかりだ。どうやら、彼の辞書には「驕り」という文字はなかったようだ。とにかく、腰が低く、いつも爽やか、そして、白いシャツがよく似合う男だった。

 それでも、フットボーラーとしての工藤のブリスベンでの日々は、決して楽なものではなかった。シーズンが始まってからの合流で、所属クラブが無い状態でも何とかキープしていたコンディションも2週間の隔離を経ながらの維持は難しかったはず。チーム合流後、コンディションが戻っても、なかなか思ったプレー機会を得られずに内心忸怩たるものもあった。

 元日本代表のプライドを試すかのように、クラブは彼をユースチームの一員として、セミプロ相手の練習試合に出場させることもあった。人間が出来ていなければ、怒るか、腐るか、それなりの感情が発露してしまうはずだが、そんな内心の葛藤をお首にも出さず、彼はピッチ内外でプロフェッショナルで有り続けた。

ピッチ上ではいつも全力。鋭い目でボールを追った

 その輝かしい経歴がゆえに即戦力と期待された彼が試合にあまり絡めないことを、それこそ悪し様に悪く言うサポーターも少なからずいた。おそらく、そういう声は彼の耳にも届いていたろう。ストライカーの象徴である“9番”を背負う以上は、得点でしかその負託に応えることはできないことを生粋のナンバー9であり続けた彼は誰よりも分かっていた。だからこそ、昨年4月のセントラルコースト戦でようやくゴールを決めた時の喜びは格別だったに違いない。それでも、ゴール直後すぐに喜びを爆発させず、一瞬見せた喜びを噛みしめるような表情がとても印象的だった。苦労が報われて良かった―テレビの画面越しでもそんな彼の思いが伝わってくるようだった。

 そんな彼の死をロアのサポーターもチームメイトも心から悼んでいる。土曜日のロアのアウェーでの試合では、シドニーまで足を運んだロアサポーターがスタンドでトリビュートを行い、それを中継のカメラが抜いた。ピッチ上でも、ロアの同点ゴールを挙げた工藤と同じ9番を背負うチャーリー・オースティンと、工藤のブリスベンでの“盟友”だった檀崎竜孔が“Masato 9”のジャージーを高々と掲げた。

 正直、彼とは、「取材対象」と「書き手」という遠慮が抜けきらない関係性のままだったので、もう少し、彼の本音などを気軽に聞き出せる距離感になっておけばよかったとの後悔はある。それでも、ウェストエンドのカフェで、2人でコーヒを飲みながら3時間ほど話し込んだのは良い思い出。永住者のちょっとした集まりに顔を出してくれた時にはどんな話にも興味深そうに耳を傾けていた。「彼がブリスベンに長くいてくれたら、とても良い仲間になるな」、そんな彼を見ながらそう思ったものだ―でも、その男がもうこの世の中にいない…そんな現実はあまりにも無情だ。

 とても、当稿だけでは、工藤壮人がこの国に遺した足跡やエピソードを語りきれるはずがない。まずは、彼がブリスベンの地で頑張っていたという事実を一人でも多くの方に知ってもらうことで、無念の内にこの世を去らなければならなかったフットボール界随一の好漢・工藤壮人へのささやかな手向けとしたい。

 ブリスベンは、工藤壮人を忘れない。

 May Masato Rest in Peace. 合掌

出番がなかった試合後も若手に混じってダッシュを繰り返した

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