現在オーストラリアに住む多くの日本人は、1985年のプラザ合意による円高とバブル景気が起こった時代以降にやって来た移民の1~2世が多い。だが歴史をさかのぼると、オーストラリアにはもっと古くからの日本人移民が存在していた。
彼らは洋服の高級ボタンの材料となった白蝶貝や真珠の採取に従事し、明治30年ごろには日本人渡航者が1000人を超え、木曜島の全人口の60%を日本人が占めていたこともあったそうだ。
71年に開始されたアソル・チェイスの調査によると、当時、日本人の船長の下で働いていたアボリジニの老人が数人、ケープ・ヨークのロックハート川周辺地域にまだ存命していた。
日本人はアボリジニの言葉で、目が顔から突き出ていないことを意味する「ku’unkulu(deep eyes)」と呼ばれ、高い技術を持ち、勤勉に働き、アボリジニたちへの労働条件や賃金も公平で約束通り支払っていたことから、彼らに一目置かれる存在だったようである。
チェイスの記録した、当時、船でアボリジニたちに使われていた古い日本語由来の言葉を紹介する。
Ikuramu(行く)
Umay(女性:「お前」から?)
Churuchuru(子ども:ちょろちょろから?)
Sagi(酒)
Kuyima(来い、今)
Tuning(トウネン:円錐形の食用の貝)
Ma nandu uki nu(まぁなんと大きいの)
Ma ami nandu ukinu (まぁ雨なんと大きいの)
Ukuyti (行く手)
Misakuru(飯くらう)
Atama(あたま)
Namaku(なまこ)
Kami(カメ)
Nam(なます:生魚と野菜を酢に漬けた物)
和歌山県串本町によると、当時の日本人には和歌山県出身者が多かったそうなのだが、この串本町で食べられている「トウネン」という貝が「Tuning」という言葉になって残っているのも興味深い。串本町はこういった歴史的背景から、2011年に豪州トレス市と友好都市提携を結んでいる。
■参考文献:
Chase, A. (2011). ‘All kind of nation’: Aborigines and Asians in Cape York Peninsula. Aboriginal History Journal, 5.
プロフィル
ランス陽子
フォトグラファー/ライター、博士(美術)。現在、グリフィス大学の大学院でオーストラリアの日本人コミュニティーにおける日本語変種を研究中。ゴールドコーストでの調査を手始めに、今後はオーストラリア各地での調査を予定している。在豪日本人が使用している面白い言葉についての情報を募集中。情報やメッセージはFBコメント欄かFBメッセージまで。「ゴールドコースト弁を探せ!プロジェクト」
(Web:www.facebook.com/ゴールドコースト弁を探せプロジェクト)