メルボルンにはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか——。
メルボルンは海岸から4キロほど内陸に位置しているが、真水の取水地を起点に植民が始まった。メルボルン中心部、フリンダース駅の近く、ヤラ川クイーンズ橋のたもとにヤラ・フォールズ(Yarra Falls)という天然の岩堰(いわぜき)があり、この上流が真水であった。1835年にメルボルンの移民が始まった直後は、水売りの業者がヤラ・フォールズ上流から取水して、荷車に積んで各家庭に水を配達して販売していたが、メルボルンの急速な発展で追いつかなくなった。メルボルン近郊地区のコリンウッドなどでは、家庭や産業用の下水をヤラ川に排水したので、下流地域では飲用水としては使用できなくなった。
ゴールドラッシュで大量の金鉱夫が流れ込み、メルボルンの衛生状態は悪化して大きな問題となった。ビクトリア植民地総督チャールズ・ラトローブは、良質な水の探査や上水道普及の情報を水道管理局に集めさせた。
コレラや感染症の暴発を防ぐために、奇麗な水を各家庭に水道を通して供給する計画が1850年代初頭に決定された。当時のメルボルンの上水道を調べるのに、1854年ごろに書かれた「トーマス・ビブの地籍地図(ビブの地図)」という貴重な資料がある。
水道管理局は、建物の場所を特定する道路や水道をつなぎ込む建物の種類を完全に調査して、水道本管や水道栓の場所を決定した。メルボルン都心部には、水道本管が主要道路に敷設され、給水栓は全ての道路交差点に設置されたことがビブの地図に明示されている。
水道給水栓は1700カ所あり、都心部の全ての建物の外側に設置された。ビブの地図にはメルボルンの通りにある水道本管の場所と状況の全てが明記されている。
供給側の寸法を確定させることにより、各建物の設計者が、水道供給に必要なパイプや水道栓、消火栓の数や長さを決定することができた。ビブの地図が優れている点は、カラーによって建物の建築材料が特定できる点である。例えば鉄製の建物は、深い青で描かれている。
ゴールドラッシュの結果、メルボルンは急速に開発されたために、数カ月で建物の数や様式がかなり違ってきた。建物寸法や水平位置、屋外トイレや汚水槽の状況などは、市の調査官から水道管理局に報告された。
ビブの地図は、明治時代が始まる14年前の1854年ごろに、メルボルンでは近代的な水道ネットワークがあった明確な証拠である。
このコラムの著者(文・写真)
イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表。東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営