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オーストラリアの田舎で暮らせば⑫夜の世界で感じる自然への畏怖

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 ユーカリの森の向こうに陽が沈むと真っ暗な夜がやって来る。田舎の夜の暗さには漆黒という言葉がぴったりだ。家の明かりは数えるほどしかなく一見して辺りは静まり返っているが、夜行性の動物たちは生き生きと命を謳歌し、月は力強く光る。オーストラリアの田舎町に広がる夜の世界に目を凝らすと、豊かな詩情と同時に自然への畏怖(いふ)が立ち現れてくる。(文・写真:七井マリ)

日没後に動き出す生き物の気配

辺りに街灯も町の明かりもないので、太陽が沈み切るとすぐに何も見えなくなる

 夕方、薄暗くなり始めた庭でカンガルーは草を食べることに忙しい。近くにいる人間など眼中にないようで、次々と歯で草をちぎり、咀嚼し、喉が鳴る音までよく聞こえる。ここサウス・コースト地方でよく見るイースタン・グレー・カンガルー(eastern grey kangaroo/和名:オオカンガルー)は、日中を睡眠や休息に充て、明け方と夕方に最も活動的になる薄明薄暮性と夜行性の性質を持つ。その時間帯にはカンガルーが公道にも跳び出して来るので要注意だ。

 暗くなると方々からカエルの鳴き声が響き、初夏にはセミの大合唱も加わる。窓ガラスには光を求めて蛾が集まり、軒下の乾いた暗闇には獲物を待つ夜行性のヘビやクモが姿を現す。気温が下がって湿度が上がるにつれて濃くなる森の土のにおいに混ざって、夜でも花が甘く香る。

 日没後、鳥の多くは眠りに就くが、ヨタカやフクロウ、ミミズクなど夜行性の鳥もこの辺りに分布している。夜通し遠くで響くカッコーに似た鳴き声は、サザン・ブーブック(southern boobook/和名:ミナミアオバズク)のようだ。

 窓の外を通過する低く唸るような羽音はコウモリだろうか。空飛ぶキツネ(flying-fox)の名で知られるオオコウモリは羽を広げると最大1メートルにもなるが、フルーツ・バット(fruit bat)の別名の通り果物や花の蜜を食べる。一方で、隣人が見掛けたというマイクロバット(microbat)はたった数センチの体長で、和名はココウモリ。他にも空飛ぶ哺乳類として、フクロモモンガの仲間もこの辺りに生息していると聞く。暗闇で姿は見えないが、夜の世界もなかなかにぎやかだ。

夜中に走り回る「階上の住民」

木登りが得意な雑食のポッサムは、庭木の新芽やつぼみをよく食べている

 夕食時、屋根の上を歩く足音が聞こえ始める。有袋類のポッサム(possum)だ。オーストラリアではカンガルーと並んで絵本の題材にもなるような動物で、灰褐色の毛に覆われた体のサイズは猫に近い。

 季節を問わずポッサムは夜中まで運動会のように走り回っている。寝室の上を猛スピードで通過する足音の大きさには屋根が破壊されたかと思うほどだが、階上に夜型の住民がいると思うことにした。時には縄張りを主張する甲高い唸り声を上げているので、夜の動物界も気楽ではないのだろう。

 まだ早い夜に外へ出てみたら、2匹のポッサムが仲良く木の幹を駆け上がっていくところだった。懐中電灯の光に驚いて逃げたようだ。我が物顔で夜の世界を駆け回るポッサムだが、意外と小心者らしい。しかし都市部に適応したポッサムを日没後の公園で見た時は、餌付けされているのか人間を怖がらなかった。

 ある朝、半屋外の物置の高い棚の上にある見慣れない毛の塊に気付き、背伸びしてのぞいたら就寝中のポッサムだった。起こしてしまったようで目が合ったものの、向こうは微動だにせず息を潜めていたので、こちらも気付かなかった振りをしてその場を離れた。英語の「play possum」という慣用句は、日本語で「たぬき寝入り」や「いない振り」を意味する。これはアメリカ大陸のオポッサムという別の動物が危機下で擬死状態になる習性に由来するそうだが、オーストラリアのポッサムも攻撃せずにやり過ごすのが得意なようだ。

月夜の庭を散歩して見た光景

満月の前後の晴れた夜は、懐中電灯なしでも辺りの景色がぼんやり見える

 家も街灯も少ない田舎の夜は暗闇が常だが、信じられないほど明るい月夜もある。外に出ると、草木の色までは見えずとも、月光の下でくっきりとした陰影が一枚一枚の葉の形を浮かび上がらせる。つやのある照葉樹の葉は、光に照らされてひときわ存在感を放つ。

 寒い満月の夜に一度、パートナーと2人で厚着をして庭と森の境目までのごく短い散歩をした。ライトを点けずに夜の世界をのぞいてみたくなったのだ。

 家から漏れる光が届かない場所でも、乾いた土の道が月明かりで仄白く浮かび上がっていた。明度の低い陰影でかたどられた月夜の世界は、まるで冷たい水の底のようだ。背の高いユーカリの木々も車も納屋も、鮮やかな色彩のある昼間の景色とは一転してよそよそしいが、打ち捨てられた遺構のようで美しい。

 夜の静寂を邪魔しないように佇んでいると、茂みの中を這う小さな生き物の気配がした。森を横切っていくどっしりとしたジャンプの音はカンガルーだろう。頭上で星がまたたいて、月が世界の中心のように見えた。

焚き火を消した後の暗闇

強風で落ちた枝や倒木など、焚き火の燃料には事欠かない

 都会暮らしのころのような夜の外出はほとんどしなくなったが、田舎の夜の楽しみの1つは焚き火だ。風のない日に森や家屋から距離のある場所に火を起こし、消火用の水を用意する。火を囲んでのんびりと時間を過ごすなら、肌寒い夜は炎の明るさと温かさが特に映える。暗い夜の世界を赤々と照らす火に包み込まれるような安らぎを感じ、膝や顔が熱くなっても炎を見つめ続けてしまう。降り注ぐような星の下、火のそばでなら何時間でも飽きずに過ごせる気がする。

 とはいえ人間にとって本来、夜は活動の時間ではない。しっかり水をかけて焚き火を消すとそこは完全な闇。シドニーのような都会なら真っ暗な屋外で最も気を付けるべきは人の存在だが、ひと気のない田舎での脅威は自然そのものだ。自分の靴も見えないほどの暗さの中、1人で溜め池に落ちようがヘビに噛まれようが誰にも気付かれないだろう。明かりを失った人間の無力さを前に、暗闇は濃さと静けさをいっそう深くする。

 夜の闇が浮き彫りにする自然への畏怖は、人間がちっぽけな存在である実感の裏返しだ。それは同時に、日頃からの人間の自然への傲りを意識させる。そんなことを思いつつ、夜の世界の生き物の気配をそこかしこに感じながら、夜目の利かない人間は自然の摂理に従って眠ることにする。

著者

七井マリ
フリーランスライター、エッセイスト。2013年よりオーストラリア在住





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