第20回:コミュニケーションはあいさつから
旅行業界には、いろいろな業界用語がある。私の仕事は、社長室での秘書業務だったので、長年働いていても分からない言葉が多かった。
当時働いていた日系旅行会社では4年ごとに社長交代が行われることになっていた。ある時、入社以来お仕えした社長が日本に帰国することになり、新しい社長を迎えるにあたって、社員の間で新しい社長はどんな人だろうかと話題になっていた。
特に東京本社から赴任している駐在員の間で、「今度の社長は丸ドメだそう」という話で持ち切りだった。「丸ドメ?」聞いたことのない言葉だった。
部長の1人に、「丸ドメって何ですか?」と聞いてみた。「まるでドメスティック、つまり日本国内業務経験者で、海外赴任経験がないということだよ」「そういう人がオーストラリアの社長になるなんて非常に珍しい」「やっていけるのだろうか」いろいろな意見が飛び交っていた。
そういうことだったのか。海外旅行を人びとに提供する会社で、実際に海外に住んで働いてその国の良さを理解した上で商品にするのがインバウンド業務であるから、海外勤務の経験なくして当地の社長に抜擢されるというのは、本当に稀なことであったのであろう。
「単身赴任」「運転ができない」「和食オンリー」「英語が得意でない」など新しい社長にはこれぞとばかりの心配条件がそろっていた。
東京からのJAL便で到着した新社長、なんともしっかりした感じの人で、言うこともはっきりしていた。「私はコーヒーも紅茶も飲みません。飲むのは、日本酒のみ、そうでなければ水」と、いきなり言われて驚いた。
毎朝、早くに出社して午前9時になると、新社長はオフィスを歩いて1周する。社員1人ひとりに「おはようございます」、日本人以外の社員には「Good Morning」と話しかけていた。まだ役員しか新社長に会っていないころだったので、旅行業務部や経理・IT部の方では「元気の良いおはようおじさん」というニックネームで呼ばれていた。
毎日、来る日も来る日も新社長はこの朝のあいさつオフィス巡りを続けていた。しばらくして、食事の席で新社長がこのあいさつについて話してくれた。「私はどこのオフィスに勤務になってもずっと朝のあいさつを欠かしたことはないのです。自分が歩いて回れば、机に名前が書いてあるので誰がどこで働いていて、どんな顔をしているのかがまず覚えられる。そして毎日あいさつしてると、その日の調子も分かる。9時に席にいなかったら病気か遅刻というのも分かる。たくさんの情報を得ることができる上、あいさつで気持ち良く1日を始めることができる。朝のあいさつはその日の始まり。大切なけじめの1つ。あいさつができない者は仕事もできない」
「おはようおじさん」は、あいさつの大切さを知り尽くした勇敢なベテラン、この人ならすばらしい社長になれると思った一瞬であった。
ミッチェル三枝子
高校時代に交換留学生として来豪。関西経済連合会、マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社に勤務。1992年よりシドニーに移住。KDDIオーストラリア及びJTBオーストラリアで社長秘書として15年間従事。2010年からオーストラリア連邦政府金融庁(APRA)で役員秘書として勤務し、現在に至る