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今では考えられない?入口が女子用と男子用に分かれていた小学校も/マーベラス・メルボルン 第71回

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アボッツフォード小学校(1864年建築)。中央部入口と教室は、女子用と男子用に分かれている

 1851年にビクトリア植民地は、ニュー・サウス・ウェールズ植民地から分離した。

 ビクトリアは、宗教色がない普通学校制度とキリスト教系学校制度の2つの学校組織を継承。教育省の下に国民学校庁と宗教学校庁が設けられ、限られた予算を取り合った。

 当時は、男性中心の世の中を反映して、男子生徒と女子生徒は明確に区別され、教室や建物の入り口も別々であった。女子生徒の就学は、家庭科の高等教育が目的だったという。

 53年設立の国立メルボルン大学でも女子学生の入学は長い間認められず、ようやく認められたのは90年(明治23年)のことである。

 カトリック教会とプロテスタント教会は宗教的に対立し争いの種であったが、ビクトリアの各地で学校を増やしていった。

 当時は学校法などの規定がなく、どのような学校に通うかは自由に選択できた。私立学校に通う子どももいれば、自宅で家庭教師に習う子どももいた。貧しい家庭の子どもは教育を受けることができず、教会や福祉団体などにより、無料の福祉学校が作られた。

 51年にゴールド・ラッシュが始まり、政府も大きな予算配分ができるようになった。この時期、グラマー・スクールと呼ばれる英国イングランドの小中高一貫の私立学校をモデルとしたエリートの私立学校が設立された。

 54年ごろ、ビクトリア植民地政府は、メルボルン大学へ入学する学生を育てるため、3万5,000ポンドの巨費を投じて、複数のグラマー・スクールの設立と運営に関わった。メルボルン・グラマー、スコッチ・カレッジ、ウェズリー・カレッジなど名門校4校が選定され、予算が分配された。

 当時、メルボルン大学同様に各校全てが男子校であり、現在もビクトリアの名門学校として著名人を輩出している。英国のチャールズ国王もジローン・グラマーのOBである。

 ゴールド・ラッシュにより人口が激増し、教育制度を変更する必要があったため、62年に公立学校法が成立し、72年にビクトリア教育法が作られた。宗教色がない、無料、義務教育などが骨子であった。

 ビクトリア植民地政府は、各州の中で最初に6歳から15歳までの子どもたちを対象とした公立学校制度を設置した。メルボルンには富裕者層や労働者層が暮らしていた地区があるが、小学校建築物で見ると、政府は分け隔てなく有名建築家による立派な建物を建設している。


ビクトリア最古のポートランド小学校
労働者層のリッチモンド小学校

このコラムの著者(文・写真)

イタさん(板屋雅博)

イタさん(板屋雅博)

日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表。東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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