オーストラリアの田舎で暮らせば㉘画家アーサー・ボイドが描いた自然

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 私が暮らすサウス・コースト地方にゆかりのある著名な芸術家の1人に、アーサー・ボイド(Arthur Boyd)というオーストラリア人の画家・彫刻家がいる。ボイドが晩年を過ごした土地に設立されたアート・サイト「バンダノン(Bundanon)」を訪れると、芸術家の心を捉えた美しい川辺の自然が出迎えてくれた。オーストラリアの自然に魅了されて田舎に移住した身としては、生態系や景色の豊かさが人の心にもたらすものを考える好機となった。(文・写真:七井マリ)

著名アーティストの終の住処

バンダノンのアイコンとなっている現代建築「ザ・ブリッジ(The Bridge)」

 緑豊かな田舎の空気に魅了されて都会から移り住むのは現代人ばかりではない。シドニーから車で約3時間の当地では、入植後100年足らずの1800年代から既にそうした動きがあったと記録が残っている。豊かな水をたたえたショールヘイブン川を臨む丘陵地にその当時建てられた家の1つに、オーストラリアの近代画家・彫刻家アーサー・ボイドは1979年から20年暮らし、そこを終の住処とした。ボイドはベネチア・ビエンナーレへの参加も果たした芸術家で、イギリスのテート美術館や東京国立近代美術館にも作品が所蔵されている。彼の死後、家やアトリエを含む土地「バンダノン」は、新設された現代建築のアート・ギャラリーや宿泊施設も擁するアート・サイトに生まれ変わり、2022年に一般向けにオープンした。

 緑の豊かさと河岸の地形を引き立たせる現代建築、そして昔のまま残るアーサー・ボイドの住まいとアトリエ。それだけでもバンダノンに関心を持つには十分だったが、多彩な画風やモチーフで知られる芸術家の「創作」と、彼が選んだ「場所」との関係性にも興味がわいた。幸運なことにバンダノンは私が住む町から気軽に出かけられる距離にあり、よく晴れた夏の週末に訪れることができた。

画家としてのキャリアとバンダノンへの移住

「Brides」シリーズの作品。『Arthur Boyd: Art & Life』(Janet McKenzie著、Thames & Hudson出版)より

 メルボルンの芸術家一族に生まれたボイドは、祖父の手ほどきを受けて画家としての腕を磨いたといわれている。10代のころには印象派の影響を感じさせる光に満ちた風景画も描いたが、ボイドのキャリア中期の作品群は極めてダークな印象を醸し出す。

 特に有名な「Brides(花嫁)」シリーズと呼ばれる一連の絵画は、キャンバスに塗り込められた不穏な叙事詩のようだ。このシリーズは、西洋文明の流入により失われゆくオーストラリア先住民のアイデンティティーや、先住民と非先住民の間に生まれた子どもの社会的孤立という現実に光を当てている。発表直後は海外で特に高い評価を受けたという。重い印象を残す巧みな色使いと、人や動物などのモチーフの佇まいが不吉に絡み合い、シュルレアリスムの要素もあるそのバランス感覚はどこかマルク・シャガールを想起させる。

 ボイドと現在のバンダノン周辺の地域との関わりは、1970年代初頭に始まる。初めて当地を訪れ、手付かずの景観を称賛し移住へと至ったボイドは、その頃から周りの自然を作品のモチーフとして頻繁に登場させるようになった。静かな川面、森の中の滝、高い木々と空など、美しいだけではない自然の息づかい。「Brides」シリーズの頃は絵の世界が鑑賞者に向かってせり出して来るような印象があったが、晩年は作品の世界と鑑賞者が静かに対峙するような関わり方に変わった気がする。ボイドが晩年を過ごしたバンダノンの土地が、彼の創作にモチーフとして以上のインスピレーションを与え、スタイルの変遷に寄与したと解釈しても間違いではないだろう。

「ホームステッド」で感じた生活と創作の名残り

元住居の中にはボイドがバンダノン移住前に描いた作品も展示されていた

 バンダノンの現代建築がある区画を離れて未舗装の細い道を車で進むと、現在は週末だけ開放されているかつての居住エリア「ホームステッド(Homestead)」に着く。牧場と見紛う広大な緑のスペースを見渡すようにして、2階建ての石造りの屋敷が建っている。家の中には、ピアノや暖炉がある居間、階段、寝室から浴室まで所狭しと作品が展示され、窓からは生前のアーサー・ボイドが毎日眺めたであろう青草や木立ちがまぶしい。まるで彼が年若いころに描いた風景画のような、柔らかな光に満ちた眺めだ。書架には隙間なく本が詰められたままで、安楽椅子に座ったボイドがページをめくる様を想像する。

 母屋を出ると、庭の一角にアトリエがある。天窓から差し込む自然光が明るく、創造的な空気が感じられる空間だ。空きビンに立てられた絵筆、パレットの上で固まった油絵具、余分な色やオイルをぬぐった布切れ。そこにいると、まるで画家が今も生きて絵を描いている途中のような気がしてしまう。窓の外の木陰では鳥や巨大なトカゲが休息し、草花の間から彫刻作品が顔をのぞかせる。庭を少し離れると、敷地内に散策できる小道もある。ボイドも時には絵を描く手を止め、そこを歩いたかもしれない。

身を置く環境が創作にもたらすもの

アトリエの内部に展示されている油彩画はボイドの晩年の作品

 ボイドの人生には第2次世界大戦での従軍やロンドンへの移住などもあり、それぞれの経験は都度、作品に昇華されている。「Brides」シリーズの制作は、オーストラリアの荒野を旅して先住民の人びとの暮らしに触れた後だったという。経験が創作の糧となることにおそらく自覚的であったボイドが、自然豊かな環境を人生の終わりに選んだことは非常に興味深い。文明の発展に伴う環境破壊を憂いた人でもあった。

 以前、川でボート遊びに興じる若者の傍らでキャンバスに向かうボイドを映したドキュメンタリー映像を見た。彼の鋭い眼光や迷いのない手つきは燃える炎を思わせる。景色の中に身を置いて風景画を描くことの意義をきっぱりと語るボイド。その芸術への情熱が、緑あふれるバンダノンと呼び合ったのかもしれない。

 身を置く環境が作品や仕事に与える影響とは、すなわち環境がその人の心身にもたらした作用といえる。自分がどこにいて、何に囲まれ、何を感じ取るかが人生を形成していくなら、芸術家であるか否かにかかわらず、どんな環境で生きるかという選択には多くの可能性が秘められているはずだ。

著者

七井マリ
フリーランスライター、エッセイスト。2013年よりオーストラリア在住





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