第4回
“Nil sine labore.”
ブリスベンと、共に世界へ
Alt.vfx共同創業者 高田健
今回の「一豪一会」は、類まれなる才覚の持ち主とのワン・オン・ワン。今月の「QLD州特集」と紐付けて、ブリスベンを代表する日系企業家として登場を願ったが、少々考えが浅かった。そんな「型」や「枠」には収まり切れないほどのグローバルな活躍を見せているのが、技術革新のスピード感が他とは比べられないくらいに早いデジタル・クリエィティブ業界の最先端を走り続ける高田健。世界を相手にしながらも、多感な時期を過ごした創業の地ブリスベンを愛し続ける日系企業家の本音に迫った。
(取材日=7月9日、取材・構成=タカ植松、写真=大山芙佳)
PROFILE
たかだたけし
埼玉県出身。13歳の時、父親の仕事の都合でブリスベンに移住。グリフィス大学を卒業後、日本で就職。帰豪後、地元の映像制作会社に勤務した後、2011年に6人の同志と起業した「Alt.vfx」が一気に豪州広告業界の寵児となる。今や豪日米3カ国に拠点を持ち活躍する、豪州の日系社会で最も熱い企業家の1人
PROFILE
タカ植松(植松久隆)
ライター、コラムニスト。在ブリスベンの日豪プレス特約記者として臨むさまざまなインタビュー取材では、今更ながら人が織りなすドラマとその言葉の重みに気付かされる日々
ブリスベンの流行の中心フォティチュード・バレー。その中でも歴史的建造物が多く残る一角に佇む19世紀末建造のゴシック様式の教会集会所だった荘厳な建物。そこが、世界の最先端をひた走るプロダクション会社のオフィス兼スタジオだとは、道行く人びとはまさか思いもよるまい。その歴史的建造物から生み出される数多(あまた)の映像作品は、豪州のみならず世界中を驚かせてきた。それらの才能を束ねて成功へと導き続ける男こそが、業界のトップ・ランナーとして注目を集め続けるAlt.vfxの共同創業者、高田健、その人だ。
13歳で踏んだ新天地
まずは、そんな高田の起業前の前半生を振り返ろう。高田少年が、世界中の仕事を請け負うランドスケープ・アーキテクトの父の仕事の都合でブリスベンの地に降り立ったのは、1988年、13歳の時。長らく“大きな田舎町”と揶揄(やゆ)されてきた地方都市ブリスベンが国際都市として歩み始めるきっかけとなった世界万博が開催された年だ。埼玉西部のベッド・タウンの小学校を卒業したばかりの13歳の少年は万博会場で「世界」を知った。
英語を全く解さない新天地での生活は、難民のための語学学校に通うことから始まった。本来なら6カ月での卒業を8カ月通ったことからも当時の英語力は推して量るべし。同級生は、ベトナムのボート・ピープル、ユーゴ内戦の混乱を脱してきた人など、世界の紛争地から難民として逃れてきた人びとばかり。
そんな彼らと机を並べ、英語を学ぶ――「全く英語が話せなくても、価値観が全く違っても、自分のバウンダリーを広げられる場だった。そんな場所を若くして経験できたことは大きな人生の転機。日本の普通の少年の価値観を完全にリセットできた」――。高田自身が語るその経験は、純粋無垢な少年の視野を大きく広げるには十分過ぎるほどに刺激的だった。
誰もがチャンスをつかめる国
その学校の5歳上の同級生との卒業後の偶然の再会は、青年へと成長した高田に大きな気付きを与えた。
「卒業後、3、4年くらいして同級生のハビエルと街でばったり会ったんです。聞けば、大学卒業後に赤十字で働いていると。生まれ育ったエルサルバドルのスラムで、ゴミを漁る生活をする子どもたちの写真を彼に見せられて強烈な印象が残っていたけれど、そんな劣悪な環境を逃れ豪州にやって来た彼が、大学で法律を修め、赤十字のようなすばらしい団体で働くチャンスをつかんだ。ああ、この国は、本当にチャンスが誰にでも与えられる国なんだと強く感じました」
この時の高田は当然ながら、後に自らが大きなチャンスをつかむことはまだ知らない。
語学学校の修了後は、両親の「最高の教育を受けさせたい」という思いからブリスベン随一の名門校ブリスベン・グラマー・スクール(BGS)に進学、充実した学園生活を過ごした。「決してアカデミックではなかった」と謙遜するが、同校のモットー「Nil sine labore(nothing without work)」を体現するハード・ワークを厭(いと)わない生徒だった。
憧れの日本を経て、帰郷
BGS卒業後は、1年TAFEに通ってからグリフィス大学に進学。大学を卒業後には「若いころから憧れが強かった」という日本での就職の道を選び、ベンチャー系IT企業に入社。右も左も分からず出向させられた先の“体育会系”の社風に戸惑うなど、さまざまな経験を「石の上にも3年」と自ら言い聞かせた。
3年後に転職した先でも、大手商社の超エリートと対等にやり合うことを求められるなど、20代そこそこの高田青年は、憧れの日本でバブルの残り香を嗅ぎながらがむしゃらに働いた。「毎日、朝から終電は当たり前。終電の車中でも携帯端末を使って仕事と、とにかく働いてばかり」
しかしそんな日々に追われるうち、「昔からの夢だったバックパッカー旅行に行きたい。行かなきゃ後悔する」との思いがもたげて離れなくなった。
そこで、思い切った高田は、スパッと仕事を辞めると欧州放浪へと旅立った。半年ほどの自由を心ゆくまで謳歌して、資金が底を突くと帰国して外資系広告代理店に入り、業界内で転職を重ねた。そのころには、高田のブリスベンへの望郷の念は、いよいよ度(ど)し難くなっていた。
そして、遂にブリスベンに戻ることを決心する日がやって来る。当時勤めていた会社から上海の新拠点の立ち上げを打診された時、燻(くすぶ)っていた思いに火が点いた。「いや、ブリスベンに帰ります」――。もう、30の声がすぐそこまで迫っていた。
ピンチがチャンスに変わった日
幸い、前職からつながりがあったブリスベンの制作会社の社長がオファーをくれた。広告代理店からポスト・プロダクションという新たなチャンレンジだったが、迷いはなかった。
社長の“引き”で入社して来た人間への周りの視線をひしひしと感じながら、誰よりも働き、誰もが認める実績を積み上げ続けようと努力した5年。「この会社の既にあるレガシーの中で、どうあがいても頭打ちになってブレイク・スルーできない……」。そう気付いた時に起業への思いは固まった。後はきっかけだった。
最大の転機となるそのきっかけは、初めは「ピンチ」という姿で現れた。2011年、日本の東日本大震災の2カ月前に起こった、ブリスベン大洪水だ。同市内で甚大な被害を受けたウエストエンドにあったオフィスも浸水被害は免れなかったが、その日、高田と5人の仲間の姿は避難勧告が出ているはずのオフィスにあった。
「ちょうど、日本の大手広告代理店との大きな仕事を受けていて、“会社が浸水でやばい”と夜にオフィスに駆け付けてサーバーを上の会議室に上げたんです。翌日も、立入禁止の中を腰まで水に浸かりながら忍び込んで作業を続けました。電気が通っていないから、発電機持参で(笑)」
洪水という大ピンチに見舞われながらも、何とか良い物を仕上げようと、”6人の侍”は作業に没頭した。
「会議室で必死に作業していたある瞬間、皆が目を合わせて『このメンバーなら、何かできるんじゃないか』って話になって……」
「ピンチ」を「チャンス」に変えてからの動きは早かった。その半年後には、高田と盟友のコリン・レンショーを共同経営者に、”6人の侍”が再結集して「Alt.vfx」が起ち上がった。
「鹿」で世間の度肝を抜く
そんな彼らのブレイク・スルーの瞬間は、すぐに訪れた。
10年前、夜の街をCGの鹿が徘徊する姿がインパクトを与え、公開されるやいなや世間の話題をさらったテレビCMがあった。そのビール・ブランド「Tooheys」のCMで彗星のように業界に現れたAlt.vfxは、瞬く間にスターダムを駆け上がった。
「新しい会社の最初の仕事として、誰もが躊躇する大きな仕事を僕らは勇気を振り絞って受けた。チャレンジするしかないから。
その作品がオンエアされてからは『Alt.vfxって誰だ』と業界は大騒ぎになりました。作品がどんどん1人歩きして、そして、なんとカンヌのライオン(筆者注;世界3大広告賞に数えられる権威あるカンヌ・ライオンズ)を獲ってしまう(笑)。
デビュー直後で、いきなり五輪のメダリストになるみたいなものだけど、一発屋と思われたくないから、そこからは毎年、賞を取り続けて結果を出し続けるしかありませんでした」
創業から10年での会社の成長は、高田の予想のはるか斜め上を行くものだった。
いつかはブリスベンに恩返しを
創業10年で豪日米に5拠点を構えるまでになったAlt.vfxだが、本拠地は変わらずブリスベンにある。高田は、かつて日本での就職のために機上の人となった時、「いつかこの街に恩返しする」と、ブリスベンの街を眼下に見ながら人知れずそう誓った。
「ノスタルジックかもしれないけど、その志はあのころから全く変わらない。ブリスベンにいながらにして世界と対等にやり合えるということを身を持って示してきたし、大好きなブリスベンを離れる理由もなく、いつまでもブリスベンと共にありたい」
そんな経営判断の正当性を、コロナ禍でも全く勢いが減速しない堅調なビジネスと、誰よりも早くリモートでのオペレーションを実現させていた先見性がしっかりと下支えする。
「起業以来、ブリスベンの会社がゆえに必要に迫られてリモートでやって来た。最初の仕事にしても、クライアントはメルボルンで、イタリアにいる人だって絡んでいるし。だから、コロナ禍で世の中がリモートになっても、僕らのスタイルは創業時から基本的には何も変わらない」
「日系」としての矜持
そんな高田だが、当然ながら「日系」としての矜持も忘れてはいない。
「自分がビジネスに迷った時、ヒーローを探して、米国のある日系経営者と知り合って、僕自身がその出会いに救われた。だからこそ、僕も誰かに影響を与えられる立場になりたい」と、日系社会の成功者の1人として当地のコミュニティーにさまざまな知見を還元したいという思いは強い。多忙な身にもかかわらず、請われてブリスベン市の多文化アドバイザリーに参加するなど、コミュニティーへの貢献にも熱心だ。
ブリスベンが万博で世界に羽ばたいた年に日本からやって来た少年は、年を経て、大洪水というピンチによってもたらされたチャンスをしっかりつかみ、これからもクリエイティブな業界のトップを走りながら、自分を育ててくれた街への恩返しを続けていく。この先もずっと彼の歩みは、ブリスベンの成長と常にシンクロしていくに違いない。
**********
筆者と同世代ながら異次元の経験を積んできた高田との高密度の90分を、4000字弱に凝縮するのはかなり難しい作業だった。どこを削るのも惜しまれるほどのストーリーを、可能な限り濃縮還元でギュッと絞り出した。読者諸兄に、少しでも高田健という日系コミュニティーが誇るべきパーソナリティーの生き様が響いたならば本望だ。もし響かなければ、それは書き手の力量が足りないからと嗤(わら)って欲しい。