新年特別インタビュー
シェフ・著述家
アダム・リアウ さん
シンプルな和食の魅力を
分かりやすく伝えたい
Photo: ©Naoto Ijichi
生まれ故郷のマレーシアと家族のルーツである中国・海南島の豊かな食文化に加え、日本に長年住んだ経験を糧に、料理の腕を磨いた。2010年、人気リアリティー番組「マスターシェフ・オーストラリア」のセカンド・シーズンでチャンピオンに輝き、一躍オーストラリア料理界のスターとなった。以来、料理本の著述、新聞・雑誌へのコラム執筆、テレビの料理番組への出演、ユーチューブでのレシピ動画の配信など活動の舞台を広げ、ユニセフ(国連児童基金)・オーストラリアの栄養親善大使や、日本政府の「日本食親善大使」、全日空(ANA)のシドニー━羽田線の「機内食アンバサダー」としても活躍している。シェフとしてのバックグラウンドや日本料理の影響、食に対する哲学などについて、シドニー郊外の自宅キッチンで話を聞いた。(取材・執筆:ジャーナリスト・守屋太郎、構成・写真:伊地知直緒人)
台所で祖母の背中を見て育った
ーー幼少時代、どのように料理に興味を持ったのですか?
3歳の時、家族でマレーシアからSA州アデレードに移住しました。当時、近所にアジア人は少なかったのですが、友達もたくさんでき、移住先での生活は楽しかったですよ。
将来は医者になるものだと思っていました。私の両親は共に医者でしたし、兄と妹も医者になりましたから、医学の道に進まなかったのは家族の中で私だけなんです。
シェフになるなんて思ってもいませんでしたが、小さい頃から料理を楽しんでいました。マレーシア系中華料理から西洋料理まで多様なスタイルの食べ物を味わっていたことが、(今の仕事に)とても役立っているのだと思います。
父の家族のルーツは海南島(中国南部)です。海南人は、マレーシアやシンガポールで他の料理や食文化をうまく取り入れていることで知られています。西洋風のマレーシア料理の多くは、海南島のスタイルなのです。
オーストラリアに移住して間もない頃、両親が働いていましたので祖母がいつも食事を作ってくれました。私の祖母はステーキやスパゲッティー・ボロネーゼなど多種多様な料理を食べさせてくれました。祖母は1つひとつ料理を教えてくれたわけではありませんでしたが、私はいつも側で見ていて、料理を覚えました。
私が小さい頃に母が再婚して、義理の父の子も3人いましたので、子どもが多い大家族でした。当時、母が毎日料理を作らなくてもいいようにと、それぞれの子どもが1カ月に1回、順番で料理を作るという家族のルールを決めました。そのため、私は8歳の時から皆の夕食を作っていました。
鶏もも肉をオーブンで焼き、オレンジのソースをかけたものが、私の得意料理でした。マレーシア系中華料理だけではなく、さまざまなバラエティーの料理を作っていました。現代のオーストラリアでは、人々は英国式の西洋料理を作るわけではなく、食文化は非常にマルチカルチュラル(多文化的)になっています。
学生時代、医者、株式トレーダー、精神科医などいろんな職業を考えましたが、将来特に何がしたいという希望はなかったですね。大学で法学を専攻したのも、友達が薦めてくれたからです。弁護士を目指していたわけではありません。法律を勉強してみるととても面白かったので、法律家は楽しめる仕事だと考えました。
大学時代のアルバイトはレストランのウェイターでした。自分で調理はしていましたが、飲食店で仕事として料理を作った経験はありませんでした。将来、今のような料理関係の仕事をすることになるとは、夢にも思っていなかったのです。
料理に興味を持ったのは祖母の影響も大きかったですが、調理のスキルはほとんど独学で習得しました。調理法や理論については、何百冊も料理本を読んで研究しました。
日本の友達に和食を教わった
ーー日本に住むようになったきっかけは?
卒業後、企業弁護士の道に進みました。オーストラリアの法律事務所で働いた後、日本に住むことになりました。たまたま東京で良い仕事を見つけたからです。ウォルト・ディズニー・ジャパン(米国の大手エンターテイメント企業の日本法人)に入社し、ウォルト・ディズニーのキャラクターの知的財産権(IP)を扱う仕事に就きました。
初めて日本に行ったのが面接の時でした。アデレードに住んでいた頃は、日本文化や和食に関する知識はほとんどありませんでしたし、日本語もできませんでした。東京に住んで、料理を作ろうと思っても、マレーシア料理や西洋料理の食材をどこで入手すればいいのかも分かりませんでした。
そんな私にとって日本料理は、全く未知の、新しい存在でした。初めて日本料理に接して「今までこんな経験をしたことがない」と感銘を受けました。和食を探求したいと思い、会社の同僚を家に招待してマレーシアや西洋料理をご馳走する代わりに、彼らに日本料理の作り方を教えてもらいました。料理学校には行かず、友達のアドバイスと独学で習いました。
日本には8年間在住し、当時ウォルト・ディズニーで働いていた日本人の今の奥さんと出会いました。彼女は食べることがとても好きで、日本料理にも詳しかったのです。彼女にも料理をたくさん教えてもらいましたよ。
料理リアリティー番組で頂点に
ーー優勝した「マスターシェフ・オーストラリア」セカンド・シーズンの最終回は当時、オーストラリアの視聴率記録を塗り替えるほどの社会現象になりました。このことはリアウさんの人生を大きく変えました。オーディションに応募した時、料理のスキルに自信はあったのですか?
マスターシェフに応募しようと思ったのは、人生の一大決心というわけでは全くありません。それまで忙し過ぎたので「ホリデーを楽しもう」と考えたからなんです。
私は「ディズニー・モバイル」(ウォルト・ディズニー・ジャパンが手掛ける携帯電話事業)の立ち上げや、中国企業の買収など大きな事業に関わり、非常に多忙な毎日を送っていました。ところが、2008年に世界金融危機が発生して仕事が少し暇になり、有給が4~5カ月もたまっていたので少し長い休暇を取ろうかと。
そんな時、友達がマスターシェフに応募してはどうかと勧めてくれました。オーディションに呼ばれるとも思っていませんでしたが、楽しそうだと思って「どんなものか見てみよう」といった気軽なノリで応募してみました。すると、シドニーでオーディションを受けてくれという連絡が来ました。ちょうどジェットスターが東京に就航した時で、往復約3万円の安い航空券を買い、一時帰国したのです。
当時、自分の料理のスキルに自信があったわけでもなく、出演が決まった時も、とにかく楽しんで、終わったらまた東京の会社に戻ろうと思っていました。
ーーマスターシェフで優勝した経験から何を学びましたか?
企業弁護士などのサラリーマン的な職は、同じ仕事を繰り返せば、継続していくのは難しくありません。しかし、仕事の形態は変わってきています。就職した会社に一生勤めるといった昔の常識は通用しなくなってきました。私は子どもに「将来は存在しなくなる仕事もあるんだよ」と言っています。
新しいことにトライするのはいいことだと思います。ダメならまた違うことに挑戦すればいい。でも、マスターシェフに勝利したからといって、弁護士を二度とやらないと決めたわけでもありません。またいつか弁護士に戻るかもしれませんよ(笑)。
多彩な媒体でストーリーを発信している
ーーマスターシェフのチャンピオンとして注目を集めた後、5つの書籍を出版したり、記事を書いたりしながら、公共放送SBSテレビの料理旅行番組「デスティネーション・フレイバー」などでプレゼンターとしても活躍しています。
ストーリーを伝えることが大好きなんです。そのためにはさまざまな場所があります。新聞や雑誌にレシピのコラムを書くこと、料理本を出版すること、テレビ番組で話すことは、そのストーリーを伝える活動の一環です。また、ユーチューブなら、テレビでは伝えきれないことも配信することができます。インスタグラムでは、1枚の写真で表現することができます。さまざまな異なる媒体を通して、ストーリーを伝えていきたいと思っています。
ーーユニセフや日本食普及の親善大使など公的な活動にも力を入れています。
母が長年、孤児を支援する団体を運営するなど、家族が慈善事業に深く関わってきました。私も人を支える仕事に携わりたいと思ってきました。特に恵まれない子どもへの支援には力を入れたいと考えています。ユニセフ・オーストラリアの栄養親善大使としてシリアの難民キャンプを訪れることができたのは貴重な体験でした。
難民キャンプの人たちには、家、家財道具、仕事などこれまでの生活とつながるものがありません。でも、食べ物は以前の生活がずっと継続しています。食事は人びとが故郷を思い出すことのできる唯一の記憶であり、非常に大切な要素なのです。例えば、難民キャンプのケバブ屋さんは、単に食事を提供しているのではなく、人々の文化的な遺産をつなぎとめているのです。「日本食普及親善大使」の仕事も大変誇りに思っています。私が任務を受けた年は、初めて日本人以外の外国人が親善大使に選ばれました。最近は訪日客が増えましたが、ご存知の通り海外の日本料理は日本で見る和食とは異なるものが多い。日本の街では、テリヤキ・チキンやサーモン・ロールをあまり見かけないでしょう(笑)。
日本を訪れる外国人の大半は日本語が分からないので、四季の移り変わりを反映した独特な食文化を理解するのは難しい。私は日本語も話せますし、そうした和食の本質についても知識があるので、海外の人に日本の食文化を理解してもらうために、分かりやすく説明していきたいと思っています。オーストラリア人に日本食に興味を持ってもらうことと、どんな料理を求めているのかを知ることが大切だと考えています。
伝統を知らなければ変化はできない
ーーリアウさんにとって、料理の本質とは何ですか?
特に中国系の人びとにとって、料理は家族で楽しむものです。1人で寂しく食べるものでも、客をもてなすものでも、高級レストランの有名シェフを称賛するためのものでもありません。家族のライフスタイルを表現するものなのです。私の活動の根底にも、そうした考えがあります。私はレストランの食事よりも、家庭料理の方がより意味があると考えています。
ーー著作やユーチューブの動画を見ていると、海外にありがちな創作日本料理は作っていません。オーストラリアで簡単に手に入る食材や調味料を使って、伝統的な調理法で和食を紹介していますね。
日本料理の真髄は、「シンプリシティー」(簡素であること)だと思います。すばらしい料理を、どうやってシンプルに創造するか。最適な味付けによって、素材のうまみを引き立てることに尽きると考えます。たくさん調味料を入れるとか、風味を複雑にすることではありません。そうした意味で、日本料理を勉強することは、西洋料理や中国料理を作る上でもきっと役立つでしょう。さまざまな料理に応用が効くのです。
クリエイティビティー(創造性)の追求のみを目的としたフュージョン(創作)料理は、好きではありません。そうした料理は、自己中心的になりがちです。私は、料理におけるクリエイティビティーは、実践的でなければならないと考えています。つまり、おいしく作るためのソリューション(解決策)であるべきだと。
例えば、調理に時間と手間が掛かる伝統料理があったなら、私は、シンプルに、早くおいしく作ることに創造力を使います。コストが高すぎる料理なら、いかに食材の値段を抑えておいしく作るか。子どもが嫌いな料理なら、どうすれば子どもが好きになるか。そうした実践的な部分で、創造力を働かせます。
ーーとはいえ、料理の伝統といっても、現在の握りずしは江戸時代後期以降せいぜい200年くらいの歴史しかないし、イタリア料理に南米原産のトマトが使われるようになったのもアメリカ大陸発見以降と比較的「最近」です。中華料理で幅広く使用されている調味料のXO醤も1980年代に考案されたもの。創作料理のメニューが100あれば、1つくらいは後の世に普及するものがあるのでは?
10年後に残る1パーセントの新しい料理は、実践的なものになるはずです。変化のためだけに変化する料理は長く生き残れません。
確かに、料理はいつも変遷していくものです。オーセンティック・フード(正統な料理)というものはありません。なぜなら今日のオーセンティック・フードは5年後には変化しているからです。東京には、新しいスタイルの「こだわりのラーメン屋」がたくさんありますが、そんなラーメンは30年前にはなかったはず。でも、それは「正統なラーメン」ではないけどおいしい。料理における「正統」には意味がないのです。
一方、「トラディション」(伝統)は重要です。伝統的な調理法から学ぶことができるから。伝統を知らなければ、変化させることもできません。伝統的な方法論を現代の料理に応用することが大切だと考えています。
ーーどんな時に料理のアイデアが浮かぶのですか?
子どもと遊んでいる時、スーパーマーケットで買い物をしている時、レストランで食事をしている時、飛行機に乗っている時、インスタグラムにアップされている写真を見た時、あらゆる時にインスピレーションがひらめきます。思い付いたアイデアは、どんなに小さいことでも携帯電話にメモしています。(スマホの画面を見せて)ほら、こんなに長いメモが電話に入っているんですよ。
世界一マルチカルチュラルな料理
ーーオーストラリア料理の定義は難しいですが、この国の現代の料理についてどう考えていますか?
現代のオーストラリア料理は、非常にマルチカルチュラルです。世界で最もマルチカルチュラルな料理と言ってもいいでしょう。現在では、普通のオーストラリア人の家族が毎日、ベトナム料理やすしなど世界中の料理を味わっています。非常にエキサイティングな状況だと思います。オーストラリア人がそうした料理を探求すればするほど、オーストラリア料理は発展していくでしょう。
長い歴史を持つ日本料理と比べると、オーストラリア料理はまだティーンエージャーです。将来はもっと自信を深めていくでしょう。現時点では「オーストラリア料理とは何か」という問いに対して、オーストラリア人が回答することは難しいと思います。
毎日食べているアジア料理は、まだオーストラリア料理ではありません。では、フィッシュ・アンド・チップスがオーストラリア料理かと言うとそうでもない。実はフィッシュ・アンド・チップスが英国から入ってきたのは、中華料理よりも後なのです。今後、オーストラリアが国のアイデンティティーに自信を深めれば、自ずからオーストラリア料理の概念も固まっていくでしょう。
ともあれ、オーストラリアはすばらしい食材の宝庫です。国土が広いため、ケアンズやダーウィン産のトロピカル・フルーツからタスマニア産の冬キャベツまで、同時にバラエティー豊富な食材が手に入ります。年中暑い北部から四季がある南部まで、多様な気候が豊かな農畜産物やシーフードを育んでいます。
ーー将来、レストランの経営に関わったり、自分のブランドの商品を販売したりする可能性はありますか?
そうしたチャンスがあれば、完全に否定はしません。(マスターシェフによって)私の人生は大きく変わりましたし、私は新しい機会があればトライできる良い状況にあります。今は時間がありませんが、将来はそうしたビジネスにも携わることになるかもしれませんね。
将来の夢とか人生の目標といったものは、特にないんですよ。以前は確固とした目標がないことに不安を感じたこともありましたが、状況に応じて新しいチャンスをつかんできました。でも、私のキャリアよりも、家族の方がずっと大切だと思っています。大きくなった子どもたちを見るのが、私の人生の一番の目標ですね(笑)。
日本で過ごすことができたことに感謝しています。日本は私の視野を大きく広げてくれました。1つの国だけに住んでいると、1つの考え方しかできなくなってしまいます。幸いなことに私は色々な国を旅してきましたが、その中でも日本は私に一番大きな影響を与えてくれました。日本に住む前は、日本の文化に特に関心はなく理解していませんでしたが、料理や文化、歴史に対する全く異なる見方を教えてもらいました。私が育ったオーストラリアは若い国ですが、長い歴史を持つ日本に行ったことによって、忍耐、四季、異なる視点といった、大切なものを学ぶことができたのです。
Adam Liaw
1978年マレーシア生まれ。アデレード大学卒。法律事務所勤務を経て、2004年ウォルト・ディズニー・ジャパン入社。10年「マスターシェフ・オーストラリア」セカンド・シーズン優勝。11年初の著作「トゥー・アジアン・キッチンズ」(Two Asian Kitchens)を発表。以来、伝統的な日本料理を家庭で簡単に作るレシピを紹介した「ゼン・キッチン」(Zen Kitchen=16年)まで5つの書籍を出版。日刊紙「シドニー・モーニング・ヘラルド」など多数の新聞・雑誌にコラムを執筆。12年プレゼンターを務めるSBSの料理旅行番組「デスティネーション・フレイバー」放映開始。16年「日本食普及親善大使」任命。日本料理やアジアのストリート・フードの作り方を解説したユーチューブ・チャンネル(Web: youtube.com/user/adamliaw)は登録者数30万2,000人(19年12月時点)。インスタグラムやフェイスブックなどのソーシャル・メディアでの影響力も大きい。