出倉秀男の日本料理と歩んだ豪州滞在記
~オーストラリアでの日本食の変遷を辿る~
其の参拾参
シェリー・ビーチの人気レストランへのスカウト
3年間の私の「魚秀」事業は、ウナギやマグロの養畜、養殖がより盛んになり、鮮魚、貝類の種類もますます増え始めた頃にひと区切りを付け、惜しまれながらも終了しました。
1980年代当時、日本はバブル経済真っ盛りで、70年代後半辺りからシドニーへの日本企業進出も目立っていました。そして私は、平塚の料亭での修業時代の経験から、形式にとらわれ過ぎず、しかしながら、少しばかり背筋がピンと伸び特別な時間を過ごせる、抹茶を自然に出せるような和食レストランを目指し、「茶房出倉」というレストランをオープンさせました。
スマートな和の食処を打ち出そうという狙いでしたが、時代が早すぎたのか、ビジネスは成功とは言い難く、同時に、プライベートでは再婚したものの、順風満帆とは言えず、離婚問題が解決するまで2~3年は、精神的にとても厳しい時期を過ごしました。
当時、母体としていたイベントへのケータリング事業は引き続き行っていました。このビジネスにより、ありがたいことに経済基盤は保たれていました。
「茶房出倉」を閉めることを考え始めた頃、マンリー・ワリンガー・シー・イーグルスのOBフットボーラーであり、マンリーのシェリー・ビーチにあったル・キオスク(現在、同地にはザ・ボートハウス・シェリー・ビーチがある)のレストラン・オーナーからオファーがありました。私のバックグウランドと、イギリスとフランスでの経験が買われ、私はル・キオスクのエグゼクティブ・シェフとなりました。
成功とは言えなかったレストラン事業とプライベートのストレスがある中、人気スポット、マンリーで再スタートを切れたことは、今から思うと恵みであり、心身共に、充実できる機会だったと思います。
ル・キオスクは、地元の人はもちろん、観光客なども集まる人気のビーチ・フロントにあるオシャレでトレンディーなレストランでした。当時、マンリーのアイコンとも呼ばれ、客席は130席ほどでしたが、週末、天気が良い日にもなると、延べ800人近くの人が食事にやってくるような忙しいレストランでした。
エグゼクティブ・シェフの仕事では、料理の献立の考案から仕入れに加え、料理人や皿洗いのスタッフも含めた人事の采配などが常時必要でした。
いろいろな国籍のバックグラウンドを持つスタッフの集まりだったので、問題もよく起きましたが、それぞれ将来のために、気持ち良く働いてくれました。仕事が終わった後はよく食べ、よく飲み、よく笑い、積極的に協力してくれました。
ル・キオスクのオーナーがシェリー・ビーチにカタマランのヨットを持っており、それを自由に使えたのも魅力だったと思います。早朝や午後のブレイク時にスタッフは対岸のビーチへのセーリングを楽しんでいました。オーストラリアならではの開放的な明るい雰囲気を今でも思い出します。
メニューには、ル・キオスクのオリジナル・カラーを大切にしながらも、ホット・シーフード・プラッターや和風の揚げ物、焼き物を加えました。スカロップを味噌を使って仕上げたり、盛り付けに日本的な要素を取り入れたりもしました。リクエストがあれば、刺し身の盛り合わせを出したり、数カ月に1回、日本食をディナーで振る舞うこともありました。
今ではあり得ませんが、海辺のレストランということもあり、近所のアマチュア・ダイバーが活きの良いスズキやブリ、アワビ、ウニなどを持って値段の交渉をしに来ることもあったりなど、今となっては良い思い出になる出来事もたくさんありました(今は個人的に魚をレストランに売る行為は法律的に禁じられています)。
このル・キオスクでの3年間は、人間関係が大いに広がった時代でもあり、オーストラリア人との付き合いがより深くなった時期でもあります。
当時、日本人シェフが日本食レストラン以外でヘッド・シェフを務めるのは珍しいことでした。ですが、今は若いシェフが、いろいろなレストランで経験を積み、活躍されています。それをとてもうれしく思います。これからも、枠にとらわれず、日本から来られたシェフが活躍の場を広げ、可能性を高めることを、大いに期待してやみません。
出倉秀男(憲秀)
料理研究家。英文による日本料理の著者、Fine Arts of Japanese Cooking、Encyclopaedia of Japanese cuisine、Japanese cooking at home, Essentially Japanese他著書多数 。Japanese Functions of Sydney代表。Culinary Studio Dekura代表。外務省大臣賞、農林水産大臣賞受賞。シドニー四条真流文芸師範、四條司家師範、全国技能士連盟師範、日本食普及親善大使