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その風をつかむために 熱気球パイロット石原三四郎さん

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その風をつかむために

熱気球パイロット
石原三四郎さん

世界で数名と言われる熱気球の日本人商業パイロットがメルボルン近郊のヤラ・バレーで活躍している。佐賀県出身の石原三四郎さん(35)だ。9月某日の穏やかな天候の早朝、石原さんが第2パイロットとしてメルボルン市内上空を飛ぶフライトに同行取材した。(取材=原田糾)

世界有数の熱気球飛行難関都市

早朝、メルボルンの空に浮かぶ気球をよく見掛ける。それほど高くない空に、地平線から顔を出したばかりの日の光を浴び、金色に輝きながら移動する姿はとても優雅で美しい。しかし、メルボルンのような大都市上空を気球が飛行するのは大変まれなことだ。

気球は風に逆らうことはもちろん自由な方向転換もできず、フライトはまさに風任せだ。高層ビルが林立し住宅が密集する都市の上空、しかも旅客機やヘリコプターが往来する中での飛行は至難の技となる。人口400万人級の都市空域でそれが許されるのは、観光業に官民で注力するメルボルンならでは。世界でも他に例を見ないという。

朝5時過ぎ、市内のホテルに集合。地面が冷え最も気温が下がる夜明け前は、風が穏やかで気球の出航に適している。

「地上200フィートまでは北、上層は南西から西南西の風ですね。非常に穏やか。良いフライトになるでしょう」

石原さんは第1パイロットのバックレーさんとヘリウム・ガスの風船を夜空に飛ばし、見えなくなるまで風船の行方を目視で確認。メルボルン空港の管制官と無線で通信し、今日の離陸地点、飛行航路が決められた。乗客の10人は折り畳まれた気球と共にマイクロバスで市内北部、ロイヤル・パークに移動。ここから離陸して市内上空を南下し、着陸予定地点の市内南東部の公園に至る約1時間の遊覧飛行の始まりだ。

美しい街並みが眼下に広がる無風と無音の空

ヤラ・バレーを飛行する石原さん(中央)
ヤラ・バレーを飛行する石原さん(中央)

「いよいよ出発しますよ」

先に離陸したもう1機の行方を眺めていると、石原さんに声を掛けられた。バックレーさんがガス・バーナーの炎の勢いを増すと、我々の乗る気球も地面を離れてふわりと上昇し始めた。公園に残したマイクロバスがみるみる小さくなる。見上げるとダンデノン丘陵の尾根から眩しく昇り始める朝日、そして朝日に照らされるメルボルン市内のビル群が視界に広がる。

上空1,700フィート。旅客機やヘリコプターでは味わえない生身で感じる空。気球内に熱を送り込むために焚かれるガス・バーナーの炎の音以外、全くの無音の世界に驚く。そして無風だ。

「気球は風に流されて風と一緒に移動します。だから風の中にいる我々は風を感じないんです」

石原さんの説明に再び驚かされる。眼下では世界遺産の王立展示館とカールトン庭園がゆっくりと移動し、徐々に市内のビル群が近づいて来る。旅客機の窓からの景色とは異なり、間近に感じるビル群は壮観だ。幸運なことにこの日、有名なメルボルン・クリケット・グラウンドの真上を通過。バックレーさんのテクニックですれすれまで降下し、圧巻の景色を存分に眺める貴重な体験ができた。

物心ついた時には空の上に

夜明け前の空にゆっくり浮かび上がる気球
夜明け前の空にゆっくり浮かび上がる気球
メルボルンのビル群を背景に見ながらメルボルン・クリケット・グラウンドの真上を通過
メルボルンのビル群を背景に見ながらメルボルン・クリケット・グラウンドの真上を通過

「気球乗りの父に連れられ3歳から気球に乗っていたようです。物心ついたら空の上にいた。気球の籠の下部にある足をかける穴。そこから見える空や眼下の景色を今でも覚えています」

9人兄弟の7番目。3と4を足すと7だから名前は三四郎。父は学習塾を経営しつつ、企業ロゴがあしらわれた気球を飛ばすパイロットとして気球を所有していた。幼少のころは他の兄弟も乗ったが、成長してからも気球に乗り続けたのは三四郎さんだけだ。

20歳でライセンスを取得。日本では規制のために客を乗せて気球を空に飛ばすことが許されず、プロの気球パイロットとして食べていくことは難しい。石原さんは生活のために会社勤めで収入を得ながら、地面とロープでつながれた係留気球の体験乗船の仕事や、地上のターゲットにいかに正確に近付けるかを競う熱気球競技を続けていたが、ある事を機に渡豪を決意する。

「海外では気球の遊覧飛行が観光として行われていることは知っていました。そしてプロのパイロットをしている日本人がオーストラリアにいることも。その人が栃木県で行われる熱気球競技の国際大会に来る機会があり、話をすることができた。そして『1度、来てみたら』と背中を押されたんです」

パイロットとして生きていけたらどんなに素晴らしいか──。石原さんは仕事を辞め、ワーキング・ホリデー・ビザを活用して来豪。シドニー近郊のハンター・バレーにある熱気球ツアー催行会社の門を叩いたのが30歳の時だ。10年続けた競技の世界では表彰台も経験し、腕には自信があった。ただ、飛行に必要な英語でのコミュニケーションが全くできない。早朝は気球を追って着陸地点までマイクロバスを走らせる下積み仕事をしながら、昼間は英会話学校に通う毎日。その後は学生ビザで英語を学んだ。乗客や管制官との英語での会話に自信が付いたころ、オーストラリアのプライベート・ライセンスを、その後に国家資格である事業用免許も取得し、念願のプロ・パイロットとして操縦を許された。2017年のことだ。

飛んでみないと分からない。気球が教えてくれた人生の楽しみ方

ダンデノン丘陵から昇る朝日に照らされる
ダンデノン丘陵から昇る朝日に照らされる

仕事を辞め、初めての海外生活。パイロットになれるかの保証もない。周りからは心配されたり、30歳にもなってと呆れられたりもした。怖くなかったのか尋ねると「それはありませんでした。自分が本当にやりたいことに挑戦しないまま、この先何十年も生きていくことの方が怖かった」ときっぱり。「けれど必ずパイロットになると意気込んでいたわけでもない。行ってみないと分からない。あまり心配し過ぎない性格。小さいころから変わり者でした」と笑う。

その性格が育まれたのが、中学生の夏休みに十数日かけて1人で九州を1周した自転車旅だという。その日にどこまで行けるか、何が起こるか分からない中で、ひたすら前に向かってペダルを漕ぐ毎日。駅での素泊まりで雨風をしのぎ、夜遅くにやっと見つけた民宿の主人に「自宅の方ならタダでいいから」と親切に泊めてもらったこともあった。人との出会いに幾度も助けられ、次々に現れる壁を都度の判断で乗り切る経験。

「勇気を振り絞って挑戦することに毎日わくわくした。学校では学べない人生の生き延び方みたいなことを、初めて感じた瞬間でした」

気球にも通じるという。より多くの気象情報を集め、事前に綿密な予測を立てても、風という自然相手に予測不能な事態は常に起こる。上層の風をつかむための上昇予定位置で、突然に空港管制官から「何フィート以下で飛行せよ」と高度を指示されることもある。考えていた方向と違う風に流されるうち、気温も上がり風も変わる。着陸予定地点から大きく離れてしまえば、地上近くの風をつかみながら臨機応変に着地可能な場所を探す必要がある。

「腕の見せ所でもあり、自然の偉大さを感じる瞬間でもあります。大きな自然の営みの中で、小さな人間がいかに対応するのか。空の表情はいつも違いますから、飛んでみないと分からないことは多い。だから面白いんです」

日々、多くの事を学ばせてくれる空から、もはや離れることはできないと笑う。

いつか日本の空に気球を

ハンター・バレーでの飛行経験を2年ほど積んだころ、就労ビザを取得して正規にパイロットとして働かないかと現在の会社からオファーを受けた。ブラジルの企業からも同様の誘いを受けたが、石原さんは迷わず、世界で最も難しいメルボルン上空を飛ぶパイロットになるという、挑戦し甲斐のある道を選んだ。

現在はオーストラリア唯一の日本人パイロットとしてヤラ・バレーで経験を積みつつ、近い将来に自らの手で操縦するためのメルボルン飛行を、第2パイロットとして訓練中だ。チーフ・パイロットでもあるバックレーさんにその腕前を尋ねると「競技出身だから、頼もしい技術と判断力がある」と太鼓判を押す。

「後は飛行時間を積むだけ。難しいメルボルンでの着地も三四郎にならすぐにでも任せたいよ」

メルボルンの空を石原さんの飛ばす気球が浮かぶのもそう遠い未来ではなさそうだ。

その先に目指すものは何なのか。

「育ててくれた日本の空に観光の熱気球を飛ばせる日が来ることです。そのために今の僕の経験が役立てばこれほどうれしいことはない。日本には本当に良い腕を持つパイロットがたくさんいる。パイロットがいて乗りたい人がいれば、気球は飛ばせるはずなんです」

空で育ち、空に教わった石原さん。いつかその空に恩返しできればと考えている。

Information
■Global Ballooning Australia
■Web: globalballooning.com.au
■Tel: (03)9428-5703
■Email: Sanshiro@globalballooning.com.au
■石原さんInstaglam: san346san

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