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4000人の悲劇の少女たち/マーベラス・メルボルン 第68回

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 メルボルンにはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか——。


ウィリアムズタウンにある少女たち移民記念碑(飢餓の岩)

 1835年のメルボルンの移民開始から13年後、約4000人の身寄りのない少女たちがアイルランド全土から集められ、オーストラリアへ送られた。彼女たちは2度と母国へ帰ることはなかった。

 40年代にヨーロッパ全域で植物の疫病が大発生し、アイルランドはジャガイモ飢饉と呼ばれる壊滅的な被害を受けた。アイルランドは英国領土の一部だったが、地主の多くは英国に住む貴族階級であり、大飢饉のさなかにも英国に食料を輸出し続けた。餓死者は100万人に上り、200万人以上が国を離れて英国やアメリカへ移民した。ジョン・F・ケネディ米国元大統領の祖父も48年にアメリカに移民したアイルランド人である。

 英国はアイルランド全国に保護施設を設置し、身寄りのない老人や子どもたちを保護した。

 英国植民地大臣であった第3代アールグレイ卿が少女たちの豪州への移民を立案して実施した。第3代の父は、紅茶で有名な第2代アールグレイ卿である。14歳から19歳までの健康な少女だけを集めて、英国植民地のメルボルン、シドニー、アデレードへ送り込んだのである。

 歴史上アールグレイのスキームとして知られているが、48年から50年までの3年間で総数は4000人強。その内1700人がメルボルンに送られた。保護施設の人員過剰を減らし、植民地の労働需要を満たす目的であった。当時の豪州は男性が多い植民地であり、植民地に「安定化」をもたらす政策であった。

 最初の移民船レディー・ケナウェイ号は、191人の少女たちを乗せ、メルボルン郊外のウィリアムズタウンに48年9月11日に到着した。その後も5隻の移民船で豪州に到来した。少女たちの家族はアイルランドの貧しい農家が多く、ゲール語を話せるが英語は話せず、読み書きもほとんどができなかった。少女たちを待っていたのは、アイルランド人への偏見、差別、虐待などであった。

 メルボルンの主要新聞アーガス紙の50年4月24日付け記事では、「教育がない孤児少女たちの移民に強く抗議する。このクラスの少女たちは、メルボルンの富裕層の良い召使いにも、農家の良い労働者にもならない」と極めて冷たい反応であった。最大の受け入れ先であったシドニーのハイド・パークでは、2253人の少女が軍の施設に収容された。

 移民したアイルランドの少女たちだが、ほとんどは豪州で結婚して安定した人生を送っており、豪州政府系や民間の研究者による詳細な報告書をネットで見ることができる。

このコラムの著者(文・写真)

イタさん(板屋雅博)

イタさん(板屋雅博)

日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表。東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営

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