オーストラリアのサウス・コースト地方に移住して変わったのは、家での過ごし方だけでなく外出の際の時間の使い方もだ。都会と異なる田舎の郵便やゴミ捨ての事情はひと手間を要するが、近隣の美しいビーチの景色や観光エリアのグルメを味わう楽しみも身近になった。日が長くなった春の後半の、ある晴天の平日の過ごし方を記してみたい。(文・写真:七井マリ)
朝のルーティーンと田舎のあいさつ
ニワトリを小屋から広い囲いの中に出したら、小屋の掃除をして卵を回収する。ついでに家庭菜園をチェックするのが毎朝の習慣で、葉野菜は水分含有量が多い朝のうちに収穫しておく。それから、野鳥の水浴び用のバード・バスに水を足す。水かさが前日より大きく減っているのは、夜間に鳥以外の野生動物も水を求めてやって来るからだろう。
朝食と家事を済ませてパートナーと共に車を出すと、沿道の住民しか利用しない田舎道の先に見えたのは真っ黒な牛の姿。いつもは近隣の放牧地の中でのんびりと草を食べている牛が、明らかに柵の外にいる。私たちより早く牛に気付いたらしい男性が自転車で近づいて来たのであいさつすると、壊れた柵から牛が出てしまったようだから飼い主に伝えてくるよ、と告げて颯爽と去って行った。
大きな通りから1本入ったような人通りの少ない道ですれ違う人にあいさつをするのは、地方部に特徴的なマナーの1つ。シドニーに住んでいたころは誰彼構わずあいさつをする習慣はなかったが、ここでは顔見知りでなくても犬の散歩やジョギングをする人に一言「Hi」や「Hello」を言わない方が不自然だ。人が少ない場所で互いの存在を認識しているサインとして、登山者同士が声を掛け合う習慣に似ている。もしあいさつをしなかったら、無作法な人か当地に不慣れな人と相手の目に映るだろう。
車に乗っている場合はドライバーが軽く片手を上げる。車がすれ違うための一時停止や徐行運転に対するお礼とは限らず、相手の姿を認めたら必ずだ。ただ、田舎ではハイウェイでなくても制限速度が時速80キロの道路もあり、さすがにそこではあいさつは行われていない。
田舎の公共サービスのスタイル
郵便局に立ち寄って窓口で名前を告げ、封書や小包を受け取る。この地域では各戸への郵便の配達がなく、郵便物は自動的に局留めになる。一度、シドニーの友人からサプライズで郵送されたギフトが生花だと分かり、郵便局が閉まる週末の直前にすんでのところで回収成功という笑い話もあった。
都市部ではおよそないことだが、ここの郵便局は小さな食品雑貨店を兼ねている。新聞、食パン、牛乳、駄菓子の他、地元産のハチミツや地域住民の手作りジャムなども販売する温かな空間だ。読み終えた本を持ち寄って無償でシェアする「ストリート・ライブラリー」の棚も設けられ、郵便局は地域コミュニティーの一部として機能している。日に3往復しかない路線バスの時刻表や、地元のスモール・ビジネスの情報もここで入手可能だ。
続いて、リサイクル用のゴミの処分に向かう。シドニーなどの都市部では決まった曜日に収集車が家庭ゴミを回収する公共サービスがあるが、この辺りの回収サービスは一部の種類のゴミに限られ、リサイクル用や大型のゴミは基本的に住民が自ら収集拠点に持って行く。分類しておいたプラスチック、金属、ガラス、紙などのゴミを外出のついでに車に積み込めば、あとは曜日を気にせず収集拠点に寄るだけなのでさして苦労はない。
興味深い取り組みとして、このゴミ収集拠点はリサイクル・ショップを併設し、住民から持ち込まれたまだ使える中古品を格安で販売している。誰かの不用品を資源として役立てられる仕組みだ。自転車、草刈り機、サッシ、家具、カヌー、木材などが整然と並べられ、品物がそこに至った経緯を想像するのも楽しい。庭用にそこで買った金網は未使用品だったがホームセンターの5分の1以下の値段。いつのぞいても客足が途切れないのは掘り出し物が多いからだろう。
平日の観光エリアで過ごす午後
海のすぐ近くにカフェや雑貨店などが並ぶ小さな町ハスキソン(Huskisson)は、ジャービス・ベイ(Jervis Bay)という湾岸エリアに位置し、我が家から気軽に行きやすい距離だ。シドニーの人にジャービス・ベイと言えば、真っ白な砂浜と透き通った水で知られる観光エリアだとすぐ分かる。ハスキソンの通りにはカヤックの貸し出しやホエール・ウォッチング・ツアーなどの看板が並ぶが、人が多いシーズンを避ければのんびりと海辺を散歩するのに良い。都市部と違って駐車場を探す手間も少ない。
ハスキソンの目抜き通りから車で3分の所には、ジャービス・ベイの名を冠したクラフト・ビール醸造所がある。屋外の飲食エリアではフード・トラックで軽食を出していると聞いて昼食時に行ってみた。数種類のオリジナル・ビールの他にノンアルコールのビールやドリンクもあり、フードは地元産の食材やアジア風のひねりを効かせた小洒落たメニュー。ビールの飲み比べセットを楽しむ人、犬連れのグループ、リゾート風の装いの女性たちもいて、開放的でくつろげる雰囲気だ。家族で訪れる人も多く、遊具や卓球台で遊ぶ子どもの姿が場の空気をより柔らかくしていた。
ランチの後は向かいの天然酵母のベーカリーでスイーツを買い、近場の海辺まで移動してコーヒーを飲むことに。さざなみが陽の光を乱反射して輝く船着き場は小さな釣りスポットになっていて、学校が早く終わったらしい少年たちが釣り竿を片手に1人また1人と増えていく。慣れた手付きで水面に釣り糸を垂らす姿は、広い海と空のあるこの景色が彼らの日常であることを物語る。
家へ帰る道すがら、食品の買い出しのためスーパーマーケットへ。家庭菜園を始めて以来、生鮮食品売り場で手に取る野菜の数がめっきり減ったことを実感する。
晩春の遅い日没の前に
帰宅後、午前中のうちに天日干しにしておいた洗濯物を取り込む。陽が強く照る日に濃い色のTシャツなどを干しておくと、数時間のうちにかすかな褪色に気付く。それでもカラッと乾いたオーストラリアの晴れの日は気持ちが良い。
サウス・コースト地方を擁するNSW州の11月の日没は午後7時半頃。明るい時間が長く、夕方にニワトリを小屋に入れるのがついつい遅くなる。ニワトリに新鮮な水と好物の穀類を与え、据え置きの飼料の残量を確認。隣人宅の馬のいななきや巣に帰る鳥たちの声が聞こえるが、ニワトリは意に介さず餌を食べ続け、気が済めばさっさと寝床に入っていく。
最後に、家庭菜園の野菜の生育具合をチェックして水をやる。植木鉢で育てているレモンやアボカドの木の成長も楽しみだ。夕食に使うハーブを摘み取り、ついでに周りの雑草をむしり、料理の手順を考えながら庭を後にする。
著者
七井マリ
フリーランスライター、エッセイスト。2013年よりオーストラリア在住