村上輝夫(98)、戦友の墓石に「不戦」を誓う
2019年8月5日午前2時はNSW州内陸の町、カウラの郊外にあった第二次世界大戦中の捕虜収容所から500人ほどの日本兵が脱走を図った事件から75年目になる。
8月4日にはカウラで75周年の祈念式典が開かれた。
ABC放送(電子版)が伝えた。
1944年8月5日の脱走事件で234人の日本兵が亡くなり、その大多数が自殺または死にきれずに同僚脱走兵に殺されている。また警備のオーストラリア兵4人もこの事件で死亡している。脱走の指導部は、「一般市民には危害を加えるな」と厳命しており、市民にいっさいの被害はなかった。
脱走事件は何の見通しもない条件で行われており、また、規模の大きさから軍事法廷の調査が行われ、脱走事件の前には捕虜の処遇に関して何の苦情も出されておらず、また捕虜の扱いに関してはジュネーブ条約の条文に則って行われていたことが明らかにされた。
村上氏は過去に何度かカウラの墓地を訪れており、75周年の今年にも墓参できるとは思いもしなかったと語っている。
式典にはゴードン・ロールス氏も出席しており、事件当時警備をしていた父親のアルフレッド・ジェームズ・ロールス氏の体験談を話している。1944年8月5日午前2時頃、おびえた日本兵が一人、毛布を握り、震えて泣きながら近づいて来て、何かを言っていた。言葉が分からないまま異常を感じたロールス警備兵は空に向けて異常を知らせる2発を発砲した。その直後に野球バットその他の即製の得物を携え、毛布を持った大勢の捕虜が飛び出してきて、鉄条網に毛布を掛けて柵を乗り越えようとした。最初に脱走を知らせに来た捕虜は仲間に殺された。
事件以後、戦後しばらくは墓地もうち捨てられていた。1952年に豪退役軍人連盟(RSL)のアルバート・オリバー・カウラRSL会長が豪将兵の墓地の整備をしている時に何人かのメンバーと共に日本人墓地の整備を始めた。息子のロバート・オリバー氏は、「父は、自分達は戦争したが、戦争は終わった。どちらもみんな人間だ。平和を追求する時だと語っていた」と述懐している。墓地は1963年に日本国に寄贈されている。また、1970年代以降、アルバート・オリバー・カウラ町長はカウラに日本庭園を設立するための努力を続けて日本にも渡っている。こうしてカウラはオーストラリアと日本の平和と友好のシンボルになってきた。1992年には「世界平和の鐘」が寄贈されている。
村上氏は戦友達の墓碑に向かって、「もう二度と戦争はしない」と約束した。
■ソース
Former Japanese prisoner of war shares lesson from the Cowra breakout, 75 years on