メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第48回 港町ウィリアムズ・タウン
メルボルンの西端に人気観光名所の港町ウィリアムズ・タウンがある。
ウィリアムズ・タウンは、メルボルン誕生から3カ月遅れた1835年11月にタスマニア・ロンセストンから羊500頭、牛50頭を積んだ帆船ノーバル号がバス海峡を超えて到着し、本格的な植民が始まった。数週間のうちに更に一群の植民船が到着したが、全てシドニーのNSW植民地政府の許可を得ない不法移民であった。
メルボルン港は、ヤラ川内の港のため大型船の入港ができなかったが、ウィリアムズ・タウンは海に面しているため大型船が入港でき、英国やシドニーからの外洋船入港地として急速に発展した。町の名前は、当時の英国ウィリアムズ4世王から採られた。
船舶建造やメンテナンス、欧州との外洋航海などは、最新の科学技術が必要であり、船舶補修用ドック、灯台、天文台、船舶経度測定用タイム・ボール(第14回参照)、ウィリアムズ・タウン技術学校などが整備された。ビクトリア鉄道の製造整備の本拠地も設置され、ウィリアムズ・タウンはビクトリアの科学技術の中心地となった。
38年にポート・メルボルンとウィリアムズ・タウンの間で蒸気フェリー船ファイアー・フライ号の運航が始まった。
豪州最初の鉄道線は、54年にメルボルンのフリンダース駅からポート・メルボルン駅までゴールド・ラッシュで急増する移民を運ぶためであったが、豪州最初の政府経営の本格的な鉄道線は、ウィリアムズ・タウンからメルボルンのスペンサー通り駅まで、57年に建設された。
ウィリアムズ・タウン港湾では、拡大する輸入品の取り扱いのため、税関が設置され、保税倉庫が港湾地帯に林立し、船員を収容し歓待する船員用ホテルや飲食店街が発展し、歓楽街もできた。
豪州最初の電信線がメルボルンとウィリアムズ・タウンの間に54年に敷設され、ビクトリア最初の地方紙であるウィリアムズ・タウン・クロニクル新聞が同年に創刊した。
50年頃には、ビクトリア植民地の首都候補として、ジーロン市と共にメルボルンのライバルとして目されていた。
51年からのゴールド・ラッシュでは、多くの移民がウィリアムズ・タウンに到着して一時的に栄えたが、金鉱山地区のバララットやベンディゴ、メルボルンに移民が移動して、ウィリアムズ・タウンの地位は相対的に下がっていった。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営