メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第49回 メルボルン税関
植民開始翌年の1836年、シドニーのバークNSW植民地総督は、2人の税関職員をメルボルンに送り込んだ。総督はタスマニアからの不法移民を渋々と認めたが、メルボルンに持ち込まれる全ての物品に関税を課した。
税関員のロバート・ウェブは、輸送船が停泊し貨物を積み下ろすヤラ川の西岸に、白い丸テントを設営して臨時の税関とした。
税関実務はすぐに開始され、翌年には140船から3,000英ポンドを収税した。ウェブの年収200ポンドから計算すると2億円ほどの税収である。
41年に2階建てブルー・ストーン石材製の建物がシドニーの政府建築家の設計で完成したが、ビクトリアの政府建築物の中では、最も醜く不便な建物と酷評された。
現在の建物(移民博物館)は、ビクトリア植民地政府が建築家ピーター・カーに依頼したもので、58年には新しい税関で実務が開始された。
ヤラ川を遡ってきた船が到達する最も奥深い場所であるメルボルン港(現在のクイーン橋北詰)に、税関は位置した。天然の水たまりである湾に停泊する船に、税関職員を送る小舟の漕ぎ手として囚人が使われた。メルボルンは囚人流刑植民地ではなかったが、数百人の囚人が使役人として働いた。
40年代にメルボルンの交易量は、急速に拡大した。農業牧畜地が拡大し、各種の製品がメルボルン港に輸入された。膨大な量のウイスキーなどの酒類やタバコも税関の収入を押し上げた。40年にメルボルンは、自由貿易港を宣言した。商人は、輸入した商品を保税倉庫に在庫して、商品が販売できた際に税金を支払う仕組みであった。
50年代のゴールド・ラッシュにより貿易量は劇的に増加した。
税関建物は海運地区の中心地にあり、税関代理店や帆船船長が税関建物前の階段を絶え間なく行き来し、ビクトリアの金鉱山地区や農業地区への玄関口として、メルボルン港は昼夜なく活動した。到着した移民が波止場にたむろし、ビクトリアへの物資を運ぶ船が停泊し、豪州の羊毛や金塊を輸出した。
50年の税関収入は8万4,000ポンドであったが、54年には12倍に激増した。豪州連邦政府成立後の1915年に所得税が導入されるまで、関税は植民地政府の主な収入源であり、政府収入の80パーセントを占めた。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営