ブレイク・スルー × 日本女性
コロナ禍においてチャレンジを余儀なくされる人も多くいる昨今、中には目の前に立ちはだかった大きな壁を前に立ちすくんでしまっている人もいるのではないだろうか。そんな中、当地で活躍する日本人の明るいニュースもまた編集部には届けられている。本特集ではパフォーマーとして、トレーナーとして、コーチとして、それぞれ海外を舞台に困難の壁を打ち破り、遂には「全豪」を舞台に輝く3人の日本女性にフォーカス。彼女たちの強さの秘訣はどこにあるのだろうか。話を伺った。
(インタビュー:馬場一哉、写真:伊地知直緒人)
PROFILE
しほ
世界一周旅行の船内(ピースボート)でフラフープに出合い、第一人者として知られるプロ・パフォーマーに師事すべく来豪。現在はプロ・フラフープ・パフォーマー「ShihoSparkleHooperakaHappyHoopyLife」として活躍。ケロッグのCMに出演予定。Web:happyhoopylife.com/、YouTube:youtube.com/c/HappyHoopyLife
自分が幸せだからこそ 周りの人も幸せにできると思うんです
Shihoさん(プロ・フラフープ・パフォーマー)
ーーフラフープのパフォーマーとして、最近ではYouTubeチャンネルも立ち上げて多方面で活躍されているShihoさんですが、元々どのようなバックグラウンドをお持ちなのでしょう。
今の活動を知る方には驚かれるのですが、私の育った家庭は非常に保守的で、習い事ばかりの幼少時代を過ごしました。月曜日は水泳、火曜日はそろばん、水曜日はピアノ、木曜日は習字、金曜日は塾と、基本的に毎日お稽古をさせられました。
ーー毎日、は大変ですね。ただ、その経験が今に生きている部分もあるのでは。
どうでしょう。確かに習い事はたくさんやりましたが、水泳を除いて体を動かす習い事は一切やってこなかったんです。実は5歳ぐらいの時に、空手に興味があったのですが、母に習いたいと言ったら「女の子はピアノをやりなさい」と言われ、最終的にピアノを10年ぐらい続けました。
ーー10年は長いですね。
はい。先生には「こんな弾き方では音大に行けない」とよく注意されましたが私は音大に行くつもりは毛頭なく(笑)、「なんでこんなに練習しているのだろう」と思って、高校時代に辞めました。
ーーご両親含め周りの人たちはShihoさんが音大に行くことを希望されていたのですか?
少なくともピアノの先生はそう思って、厳しく指導してくれたのだと思います。親は、良い大学に入って、良い就職をして、良い結婚をするという、いわゆる日本の「レールに乗った人生」が幸せという考えを持っており、親の庇護下にある子ども時代はそれに従っていました。
ーーただ、それが高校卒業後に大きく変わった。
卒業後はアメリカの大学に留学しました。祖父母が貿易のビジネスをしており、アメリカとの取引も多く、それによって家族も「英語は話せて当たり前」と思っているような家庭だったのでわりと自然な流れでした。奨学金制度もあり、生活費も安く、都会よりも田舎のほうが、勉強がはかどるだろうと考えカンザス州の大学に行きました。
ーー「大学に入学することがゴール」という日本の学生も少なくない中、きちんと勉強できる環境を求めたのは立派ですね。
家が厳しかったこともあり、とにかく家を出たい一心だったのかもしれません。ただ、初めてカ
ンザスを訪れた時は、想像を絶する田舎でびっくりしました。人間よりも牛の数が多い(笑)。現地の人も親切ではなく、最初は途方に暮れました。
不本意な就職と失恋
ーー大学では何を専攻されていたのですか?
コミュニケーション学を専攻し、写真の勉強に力を入れていました。留学生会でも、イベントの写真を撮って学生新聞に投稿するなど積極的に活動しました。これらの実績が認められ、奨学金を獲得することができ、卒業後は大学院に進みました。留学生活を送るにつれ、現地の人びとが友好的ではないのは、外国の文化を知らないからだということに気が付きました。また、自分自身が彼らに心を閉ざしていたことも一因だったように思います。それが分かってからは、留学生会のイベントで盛んに各国の文化紹介を行った他、現地の人と留学生をつなぐイベントも多数企画しました。大学院が終わる頃には、「あ、いろいろ達成できたな」と実感できました。
ーー留学生活も終盤に入り、卒業後はアメリカに残ろうと考えましたか?
そのつもりでしたが、進路について親に相談したら「帰ってきて欲しい」と言われました。「留学なら期間限定だが、就職となると話は別」と。サマー・スクールが終わり8月末に日本に帰国。すぐに働きたかったのですが、日本の就活時期とずれていたこともあり難航しました。秋入社で入れるところを探し、人材派遣会社の営業職に就いたのですが、毎日終電まで働き土日も出社する日々が続きました。大学こそアメリカにいましたが、やはり日本的な価値観は自分の中にしっかりと根付いていて、疑問を感じながらも「ここで辞めたらいけない」と踏ん張っていましたね。
ーーどれくらいの期間、働かれていたのですか。
1年間です。
ーー日本だと「とりあえず3~4年は頑張ってみよう」という風潮がありますよね。1年で退職されたのは早い判断だと思います。辞める前に誰かに相談はしましたか?
当時付き合っていたパートナーに相談していて、仕事をやめて彼の地元に引っ越すことを進められていたのですが、決断できずにぐずぐずしている間に振られてしまいました。使う時間がないからお金はどんどん貯まる一方で、大切な人を失いました。これをきっかけに「人生の意味」を深く考えるようになりました。
ーー「人生とは何か?」を見つめ直すことができたのですね。
そうですね。アメリカでの留学生活は本当に忙しく、過労で倒れたこともありました。でも信念を持って活動していたから、彼もずっと応援してくれました。しかし、日本に帰国してからは好きでもない仕事を嫌々続けて、仕事を辞める決断もできず、彼にも優しくできない、辛くあたってしまう私に彼は見切りをつけた。その時にふと気づいたのです。「自分が情熱を持って何かに取り組んでいる時に人は応援してくれるが、嫌々何かをやっている時に人はそれを察知して去って行く」と。だから、「今後は自分がやりたいことだけをやる」と決意しました。
フラフープとの運命的な出合い
ーーその後、ピースボート(※編注:約3カ月かけて世界一周をする船旅)で世界をまわられたのですね。
はい、そのピースボートでフラフープをやっている方に出会ったのです。「こんな世界があったのか!」と衝撃を受けました。その後、フラフープのパフォーマーとしてパイオニア的な存在であるBunnyHoopStarという人がノース・シドニーにいるという話を聞き、ワーキング・ホリデー制度を利用して年明けすぐにオーストラリアに向かいました。先生は私のやる気を買ってくれ、仕事場まで迎えに来てくれるなどサポートをしてくれました。
ーーShihoさんの情熱を認めてくれたのですね。
全くスキルがない頃から先生のショーに何度も招待してもらったので、ある日Bunny先生に「どうして私を呼んでくれるのか」と尋ねてみました。すると「上手な人はたくさんいるけれど、あなたは一番やる気がある」とひと言。私がフラフープのためだけにオーストラリアに来たことも先生は知っていたので、やる気のある子を育てたいと思ってくれたのでしょうね。そんな中、ストリート・パフォーマンス、いわゆる大道芸の道に進むことに決めました。路上でパフォーマンスしながらお金がもらえ、なおかつ経験値も積める。大変だけどこんなに素晴らしいことはないと思いました。
日本人師匠に学んだ路上での「魅せ方」とは
ーー人目にさらされるプレッシャーなどはなかったのですか?
ありましたよ(笑)。最初はお客さんの顔もまともに見ることはできなかったです。ただ当時、ダーリング・ハーバーを中心にジャグリングなどで活躍されていた日本人パフォーマーのTOYさんが私の師匠として、お客さんへの「魅せ方のいろは」を一から教えてくれました。
ーーBunny先生から習ったフラフープと、ストリート・パフォーマンスのフラフープは違うのですか?
全く違います。ストリートではスキルそのものよりも、構成やプレゼンテーションが命です。例えば私の場合、最初はポンチョをまとって顔も見せず、不気味な音楽を流して準備を始めます。ある程度人が集まってきた時点で、ポンチョを脱いで初めてフラフープをすることを伝えるのです。
ーー魅せ方の戦略が大事ということですね。
ストーリーの作り方やプレゼンテーション・スキル、拍手の促し方、お客さんの集め方などはTOYさんをはじめ、ストリートで活躍されるパフォーマーのショーを見て研究しました。
ーー何事においても人を集めるのはなかなか難しいことです。
大切なのは意外性ですかね。「一体何がこれから始まるのかな?」という期待感が人を引き寄せるのだと思います。
ーーなるほど。そうやってパフォーマンスを続けながら、研鑽を積んでいったのですね。
はい。今まで厳しい規律の下で生きてきた自分にとってこういった世界は本当に新鮮でした。よく周りの人から「どうしてそんな道に進んだの?」と聞かれるのですが、会社を辞めて人間や人生の本質を考えた末に、自分が本当に好きなことに気付いたのだと思います。私の友人には世界的に有名な企業で働いている人もたくさんいます。でも私は、さまざまなパフォーマーに出会って知らなかった世界を知ることで、「人生はそれだけじゃない」と、自分の価値観をがらりと変えたのです。
もうストリートには戻らない!
ーーストリートでパフォーマンスを続けながら、フラフープを教えることも始めたそうですね?
ストリート・パフォーマンスを続けるうちに、徐々にフラフープを本業にしている人たちにも出会うようになりました。そこで、「アフタースクール・プログラム」というものを知りました。これは、子どものスポーツ奨励のために、フラフープなどの特別なスキルを持った人を学校に派遣する政府のプログラムで、1週間に2~3回学校でフラフープを教え始めるようになりました。
ーー両立は大変ではなかったですか?
本当に大変でした。平日は学校でフラフープを教え、土日はショーやストリート・パフォーマンスに明け暮れる日々。TOYさんにもパフォーマンスを続けるかどうか相談しましたが、「Shihoはフラフープの指導やショーに出演するほうが向いているのでは」とアドバイスを頂きました。ただ、「一度決めたら、ストリートには戻って来るな」とも釘を刺され、悩んだ挙句にストリート・パフォーマンスはきっぱり辞めました。
ーー覚悟を決めたのですね。
「ショーに出演できなかったら、またストリートに戻ればいいや」という、どっちつかずの考えではTOYさんにも失礼ですし、もうストリートに戻れないと覚悟を決めればショーに出演できるよう努力できますからね。
ーーこれまでのお話を伺っていると、どんな局面でも常に自分の情熱と覚悟を持って選択されていますね。決して後ろを振り返らないのが印象的です。
逆境下で生まれたYouTubeチャンネル
ーーそんな中、新型コロナウイルスのパンデミックが発生し、ショーなども中止になったそうですね。
もう1年近くショーには出演していません。そこで、ロックダウン中にYouTubeのチャンネルを立ち上げました。ロックダウンで外に出られない子どもたちや生徒のためにFun23Kidsという子ども向け動画を作ったのですが、非常に受けが良く、再生回数も5万回まで伸びています。一方で大人向けに作ったパフォーマンス動画は、再生回数がそこまで伸びていないのですが、ダンサーやミュージシャンなど、たくさんのアーティストとコラボレーションした動画を作ることはやりたかったことの1つなので頑張っています。
ーーコロナの収束が見えない中、Shihoさんをはじめ、あらゆる職種の人たちが試練に立ち向かっています。そうした人たちへのアドバイスがあれば教えて頂けますか?
自分の好きなことをやり続けることが秘訣でしょうね。私の場合、子ども向けの動画をずっと作っていたら、再生回数ももっと伸びて今ではユーチューバーになっていたかもしれない。でも、それが本当に自分のしたいことでなかったら、続ける意味はないのです。自分が好きなことを追求していれば、自ずと道は見えてくると思います。
ーー今も旅の途中にいるわけですよね。今後、Shihoさんが成し遂げたいことはありますか?
自分も周りも幸せにしていきたいです。26歳の時に「人生の意味」を考えてフラフープを始めました。全く新しい世界に飛び込み、フラフープによって人を喜ばせることができることを知りました。日本で無理やり頑張っていた時代は、全然幸せでなく、人生もうまくいかなかった。でも今は自分が幸せだから、周りも幸せにできる。自分の大好きなフラフープを続けることで、自分も周りも幸せにすることを追い求めていきたいです。
(1月15日、日豪プレス・オフィスで)