ブレイク・スルー × 日本女性
コロナ禍においてチャレンジを余儀なくされる人も多くいる昨今、中には目の前に立ちはだかった大きな壁を前に立ちすくんでしまっている人もいるのではないだろうか。そんな中、当地で活躍する日本人の明るいニュースもまた編集部には届けられている。本特集ではパフォーマーとして、トレーナーとして、コーチとして、それぞれ海外を舞台に困難の壁を打ち破り、遂には「全豪」を舞台に輝く3人の日本女性にフォーカス。彼女たちの強さの秘訣はどこにあるのだろうか。話を伺った。
(インタビュー:馬場一哉、写真:伊地知直緒人)
PROFILE
のむら まい
大手フィットネス・クラブ「Jetts」所属のパーソナル・トレーナー。2016年にアジア人初となるJetts・NSW州ベスト・パーソナルトレーナー賞受賞以来、数多くの賞に輝く。フィットネス・ブランド「StyleGear」運営。
Web: stylegear.com.au/
私の仕事は人生の変化を手助けすること
皆さんにとっての成果が私にとっての報酬です
野村麻衣さん(フィットネス・トレーナー)
──NSW州のベスト・パーソナル・トレーナー賞を受賞するなど、フィットネス業界を牽引する立場にいらっしゃる野村さんですが、やはり小さい頃からスポーツには親しまれていたんですか?
両親共にテニスをやっていた他、母は新体操、父はサッカーのジュニア・プロ選手だったので、私も常に運動する環境にはいました。学生時代はバスケットボールと陸上競技をやっていました。
──高校もスポーツに特化した学校だったそうですね?
都立高校の中で唯一スポーツに特化した高校に通いました。入試は50メートル走、陸上競技、球技と実技が評価され、筆記試験も国語、数学、英語のみ。「ここなら入れるぞ」と思いました(笑)。実際に入学してみると、同級生は中学時代に大会で1位を取ったようなスポーツ界で活躍している子ばかりでした。
──筋トレを始められたのも高校時代ですか?
そうです。体育だけで10項目ほどあり、その1つが筋トレでした。ベンチ・プレスをはじめ、真面目にやらないと単位がもらえないので嫌々ながらやっていましたね。当時は、将来自分がフィットネスの道に進むなんて思ってもいなかったです(笑)。
──高校卒業後はアパレル業界に進まれたそうですが、体を動かすことは続けていましたか?
スポーツは高校で辞めましたが、体を動かすことは好きで当時はダンスに夢中でした。通っていたスタジオで自分も教えたり、東京都から報酬を頂いて都内の高校のダンス部で顧問をやったりしていました。
──アパレル業界を希望した理由は何でしょう。
3姉妹だったので家に大量の服がありましたし、洋服が大好きでした。父のファッション・センスが良かったのもあり、自ずとアパレル業界で働くことに憧れていました。更に当時は、渋谷109のカリスマ店員が大流行するなど「アパレルショップ店員」が人気の最盛期でした。ただ、アパレル店員は楽しかったのですが、2年ぐらい経った頃から、自分が今持っている知識と経験を生かして「人助けをしたい」と思うようになったんです。そんな中、たまたまスポーツ・ジム、メガロス町田店の求人広告を見て、「これだ!」と思いました。
厳しくも出会いに恵まれた社会人時代
──高校時代にトレーニングしていたとはいえ、ジムへは未経験で就職されたということですよね。
そうです、これが本当に厳しくて…。周りは皆、日本体育大学出身など大卒の人たちばかりで、骨や筋肉の名称なども知っていて当たり前という世界でした。私もスポーツに特化した高校に通っていたとはいえ、解剖学の知識はゼロ。ジムの上に教室があったので、キャリー・ケースに教科書を入れて通勤し、勉強漬けの日々を送りました。一人前になるまでユニフォームも着せてもらえなかったので、とにかく必死でしたね。
教室ではいつも「常に100%でやれ」と言われました。99%ではダメで、必ず100%の力を出し切れと。この教えが今でも役に立っています。
また、ほぼ同時期に入社した千葉啓史(ひろし)さんとの出会いも自分を変えるきっかけになりました。彼は現在、東京五輪のスポーツクライミング日本代表選手のパーソナル・トレーナーとして活躍されていますが、日体大卒だったこともあり入社時のスタート・ラインが私とは雲泥の差でした。10倍頑張っても彼には追い付かない。でも「絶対に追い越さないと!」と思って、本気で頑張りました。忙しくもやりがいのある環境で、タイム・マネジメントのやり方なども身に付き今に生きています。
運動に国境なし
──ジムを辞められた後、来豪されたそうですがきっかけは何だったのでしょう。
父がしょっちゅう海外出張に行っていたこともあり、将来海外に行くという思いは漠然とありました。そして24歳の時にワーキング・ホリデー制度のことを知り「行かなかったら一生後悔する」と思いました。また当時、過労とストイックな筋トレのせいで体脂肪が7%を切ってしまっていたんです。プロ・ボクサーのような体型で骨と筋肉しかない。結果、体調も悪化し、「フィットネス・サービスを提供する私が不健康ではいけない」と思ってジムを退職し、25歳でゴールドコーストに来ました。まずは体重を増やし健康を取り戻すことが第一の目的だったのですが、いざホームステイ先に行ったらびっくり。なんとホスト・マザーがブートキャンプの先生だったんです(笑)。早速翌朝には、彼女に連れられてビーチでグループ・フィットネスのクラスに参加しました。
──運動から逃れられない運命のようですね(笑)。
「辞めたのに(苦笑)」って思いましたよ。でも青い空の下、どこまでも続く海岸を見ながら運動した後、最後に海にダイブする――。その爽快さと新鮮さに「何これ最高!」と目覚めてしまいました。オーストラリアに来たばかりで英語はほとんど喋れなかったのですが、運動に国境はありません。これをきっかけにいつかはオーストラリアでトレーナーの資格を取りたいと漠然と思うようになりました。その後、当時付き合っていたパートナーが住むシドニーに引っ越し、英語を学び直すために語学学校に通いながら、立地の良かったフィットネス・クラブ「Jetts」のヘイマーケット支店に入会しました。
──最初は会員として入会されたということですよね。
そうです。オープニング・メンバーとして入会したんですが、筋トレを毎日真剣にやりながらトレーニングの記録を付けていたら、マネージャーから「フィットネスの資格は持っている?」と声を掛けられました。ちょうどフィットネスの学校に通おうと思っていた矢先で、その旨を伝えると「資格を取ったらJettsで働かないか」と打診されたんですよ。
──よほど目立っていたんでしょうね。
そうかもしれません。それからしばらくパーソナル・トレーナーの資格取得に向けて勉強をしていた時に、当時クラブにいたパーソナル・トレーナーから「シャドーイングに興味はある?」と聞かれました。お金を払ってでも実演の勉強をしたいのに、無料で学べる――。「こんな素晴らしい機会はない!」と思い、そのトレーナーの横で昼夜問わず実演を学ぶ日々が始まりました。
日本人らしさでクラブに貢献
──2016年と17年にはNSW州のパーソナル・トレーナー・オブ・ザ・イヤー、19年には海外支店を含めたJetts全体のJシリーズ・コーチ・オブ・ザ・イヤー(※編注:18年、20年は賞の開催自体なし)と、3回連続で賞を獲得されるという快挙を成し遂げたそうですね。勤務するヘイマーケット店をナンバー1に仕立て上げたとも伺いました。
初めて賞を受賞した時に「1位のパーソナル・トレーナーが所属しているのだからクラブも1位にしたい」という気持ちを抱きました。そこで、当時のマネージャーと共に「クラブ・カルチャー」を築き上げることに注力し、翌年、パーソナル・トレーナー・オブ・ザ・イヤーとクラブ・オブ・ザ・イヤーのダブル受賞を果たしました。
──クラブ・カルチャーは具体的にどのように築き上げたのですか?
ホスピタリティー精神を最も重視し、シフトがない時にもクラブに行き、皆を自宅に招くような雰囲気を作り出すことで間口を広げるように努力しました。日本的なおもてなし精神を持って細部にまで気を配るようにしたことで、他店にはない独自のカルチャーが出来上がったと思います。
──日本人らしさでクラブに貢献したと。
そう思います。また当時、Jettsではグループ・トレーニングはなかったのですが、日本でグループ・インストラクターの経験があったので、本社に掛け合い、グループ・トレーニングを主導することになったんです。セッション後に皆とご飯を食べに行くなど交流の場を設け、今度はグループのカルチャーを強化しました。周りから「あのグループに入りたいな」って思われるよう仕掛けた感じですね。
「結果にコミットします」と言わない
──クライアント1人ひとりの目標や個性も違いますし、人を育てるのはとても大変なことです。どのようなことに気をつけていますか?
「相手を知る」ことを何よりも重視しています。なぜ私を選んでくれたのか、何がきっかけでトレーニングを始めようと思ったのか。初回のフィットネス・アセスメントでは45分間、クライアントさんに自分のことを洗いざらい話してもらい、その人が私のところに来た「真の目的」を探ります。経験と知識さえあれば、トレーニングのプログラムを組むことはできるのですが、話を聞いていると、実際には体力面よりもメンタル面を強化・改善したいと思っている人が非常に多いんです。各人の個性を見極めた上で、アプローチ方法を変えることが非常に重要だと思っています。
──日本ではパーソナル・トレーニングというと、ダイエットやパフォーマンス力の向上など身体的な部分にフォーカスするイメージですが、オーストラリアではメンタル・ヘルス改善を目的とする人が多いということですね。
オーストラリアでは、うつ病や不安障害など精神面の問題を包み隠さず話してくれる人が多いです。私はジムの外で彼らと会うことも多く、パーソナル・トレーナーの枠を超え、彼らの生活を包括的にサポートするモチベーターやライフ・コーチといった存在でありたいと思っています。そのため、これまでにかなりの時間を掛けてクライアントさんへのアプローチ方法を勉強してきました。
──勉強されたというのは、経験から学ばれたということですか?
もちろん経験からもたくさん学びましたが、周りで活躍している人たちに「あなたはこういう状況に陥った時、どう対処しますか?」と質問し、さまざまなアプローチ法を吸収しました。個性の違うクライアントさんに自分の思いを伝えるのに1つのアプローチ方法しか知らなかったら、全員には理解してもらえないですから。色々な表現方法を学ぶ中で、自分の中にたくさんの引き出しを作っていきました。
──常に全力投入。そのモチベーションはどこから来るのでしょうか。
この仕事は「クライアントの人生の変化を手助けすること」なので、その人が達成した成果や結果が自分にとって一番の報酬です。トレーニングの回数を重ねていくごとに、その人の言動や服装が変わっていくという小さな変化に大きな喜びを感じますね。だから私はいつも120%で臨みます。クライアントに対しても「結果にコミットします」とは絶対に言いません。本気で結果を出したいなら、私と同じだけのモチベーションで来て欲しいからです。
逆境は転機!本気でやる!
──ご自身のビジネスとして、「スタイル・ギア(StyleGear)」という会社も立ち上げられたそうですね。
はい。主にマンツーマンのパーソナル・トレーニング・サービスを提供するほか、オンライン・セッションもやっています。今後はアパレル事業にも力を入れていく予定です。
──アパレル業界での経験も生かされているわけですね。活躍の幅をどんどん広げられていますが、今まさに挑戦中の人やこれから何かに挑戦したい人に向けて、試練をどうやって乗り越えるかアドバイスを頂けますか?
逆境を転機と捉え、何事にも本気で取り組めば試練は必ず乗り越えられます。チャンスは探せばいくらでもあるんです。私の場合、新型コロナウイルスの影響でジムが閉鎖され、交通事故にも遭い一時期身体が動かせなくなりました。でもその時に考えたのが、「今の私には何ができるか?」でした。すぐに自宅でオンライン・セッションを始め、今では新型コロナの隔離措置でホテルに隔離された人を対象にズーム・セッションを提供しています。コロナという逆境があったからこそ、成し遂げられたことだと思うんです。だから、どんなに小さなチャンスも逃さず、今できることに全力で取り組めば夢は叶うと信じています。
(1月22日、「Jetts」ヘイマーケット店で)