メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第52回 ヤラ川の渡し船と蒸気外輪船
1836年、シドニーのNSW植民地政府はロンズデール行政長官をメルボルンに派遣し、土地の公式売り出しが始まった。メルボルン中央部はすぐに完売し、リッチモンド、ホーソンなどの周辺サバーブの売出しが始まった。イースト・メルボルンなどシティ隣接地は、政治家や役人、医者や弁護士などが住み、ヤラ川東南部であるサウス・ヤラ、プラーンなども人気地区で、商人などの富裕層が住んだ。
橋が建設される前には、民間の有料渡し船がヤラ川を越える唯一の現実的な手段で、主な渡し船は現在のプリンセス橋、パント・ロード橋、ホーソン橋の場所であった。NSW植民地政府は関税や土地売却で収入を得る一方で、資金が掛かる橋の建設には消極的であり、後のビクトリア独立につながった。
ロープをヤラ川の東西に渡した最初の渡し船はプリンセス橋の場所でウィリアム・ワッツによって38年から、ジェームズ・パルマーの渡し船はホーソン橋の場所で42年から操業した。初期の渡し船は、馬2頭または小型荷馬車1台を乗せられたが、郵便馬車、荷馬車、個人用馬車などの交通量が増え、大型船が建造された。
ヤラ川では蒸気エンジン付き渡し船が2カ所で運営。スペンサー通り橋の渡し船は32台の車を乗せる可積載量があり、1884年から1920年代まで運営。ファースト・フライ号は1838年にヤラ川に就航した最初の蒸気式フェリー船で、ポート・メルボルンとニューポートを結んだ。
39年、ロンズデール行政長官はメルボルンの西、フッツクレイの町があるソルト・ウォーター川(現マリビノン川)とヤラ川の合流地点に渡し船を設置し、ジローン、ウィリアムズタウンへの玄関口とした。橋の設置後も観光用など多数の渡し船が残り、蒸気機関式の観光渡し船もつい最近まであった。
1853年、米国ペリー提督が率いる蒸気外輪戦艦サスケハナ号を旗艦とする4隻の黒船が江戸湾に現れたころ、メルボルンでは既に蒸気外輪観光船が普及し、ポート・メルボルン−ウィリアムズタウン線は人気路線であった。
その後、外輪船はスクリュー船に取って代わられるが、VIC州エチューカには現在も多数の蒸気外輪船が観光用として活躍しており、世界最大の蒸気外輪船のフリートとなって人気を集めている。1866年建造のアデレード号は、現在も稼働している木造蒸気エンジン外輪船としては世界で最も古い船である。