メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第55回 メルボルン・カップ
メルボルンに英国人が定住し始めたころ、既にNSWやTAS植民地では、競馬は組織化されたスポーツであった。1838年、メルボルン最初の競馬レースが、都心部のスペンサー通り西側の荒地(現ドックランズ)で行われた。競馬委員会が組織され、植民地政府に土地貸与を要望して、40年にフレミントンにメルボルン・レース・コースが恒久的な競馬場として建設。幾つかの競馬クラブが統合され、64年には現在まで続くビクトリア・レーシング・クラブ(VRC)が設立された。
50年代のゴールドラッシュで生まれた富裕層は、メルボルンを豪州の競馬中心地に押し上げ、賞金総額も上がり、国家的な競馬大会の開催を可能にした。57年に1,000ポンドの賞金を懸けた豪州最強馬を決める1戦が、メルボルン馬アリス・ホーソンとシドニー馬ベノによってメルボルンで開催され、大きな反響を呼んだ。
豪植民地間では政治、経済、スポーツではほとんど交流がなかったが、馬と馬主の名誉と多額の賞金を懸けた植民地間対抗レースは、豪州人としての意識も高めた。61年に植民地間レースとしてメルボルン・カップが創設され、初年と62年はシドニー馬のアーチャーが勝利。ビクトリアでは対抗心が生まれ、豪州の競馬中心地として発展を目指した。
65年ごろメルボルン・カップ開催日は半日休日となり、73年にビクトリア政府により休日と定められ、75年に11月第1火曜日と定められた。
19世紀後半、競馬はビクトリアの主要産業の1つとなり、競馬クラブ職員、調教師、騎手、厩舎職員などの雇用が確保された。競馬クラブはブックメーカー(掛け率事業者)、馬主などから資金を集め、組織化された競馬は人気娯楽となった。
賭博が法制化されていなかった当時、政府が競馬の規制に乗り出し、71年にビクトリア競馬法が成立。競走馬の登録、レース日の配分、競馬規則の制定などでVRCの役割は強化された。
メルボルン・カップは競馬ファンに知られていても現在ほど一般的な人気はなかったが、1920年代に始まったラジオ放送で競馬がブームとなった。競馬の実況中継によって全国まで普及する一方で、非合法な競馬博打ももたらした。
ファッションのコンテスト「ファッション・オン・ザ・フィールド」が最初に導入されたのは、1962年。ギャンブルとして男性ファンが多い競馬に、女性ファンを取り込むために企画された事業であり、競馬界がギャンブルからファッションへと大いに方向を変えたのはこの年である。