第5回
波乱万丈を乗り越えて、
輝き続ける一等星であるために
dogstarクリエイター 安木昌代
今回も、ブリスベンの日系社会が誇る才能溢れる人物に登場を願い、「一豪一会」のタイトルにふさわしい有意義な時間を得られた。筆者にとって旧知の仲だけに、ある程度人となりを知って臨んだが、実際に話を聞くと知らないことばかり。ファッションとは全く別の世界にいた若き女性が、いかにして成功を収めたのか、その成功の陰で乗り越えてきた幾つかの蹉跌(さてつ)とは――。「dogstar」オーナー、安木昌代が自身の約四半世紀のブランド・ビジネスを振り返りつつ、飾らぬ本音を語ってくれた。
(取材日=8月11日、取材・構成=タカ植松、写真=River Petein)
PROFILE
やすきまさよ
福井県出身。ワーキング・ホリデーでブリスベンに渡航後、クイーンズランド工科大学在学中に起業。2年間のマーケット出店を経て、大学卒業後の1999年に自らのブランド「dogstar」を立ち上げる。ブリスベン大洪水やコロナ禍にも負けず、ブランドを成長させ続ける
PROFILE
タカ植松(植松久隆)
ライター、コラムニスト。本誌特約記者。「タカさんの文章のスタイルが好きです」と言われたのは良いが、自分のスタイルを分かっていないことこそ、目下、最大の問題
突然のコロナ禍でのロックダウンの影響で、当初の予定が押して、今回の取材はかなり急な依頼になった。それでも、「今度の水曜日に、ちょうど次のコレクションの撮影をしているので、良ければその時に」と快諾を受け、ブリスベン有数の高級住宅地の少し外れにあるスタジオに安木昌代を訪ねた。
スタジオでは予告通りフォトシューティングがたけなわだった。東洋系のスラリと背の高いモデルが次々と着替えてはポーズを取る。モデルに声を掛けながら小気味よくシャッターを切るのは、安木の公私共々のパートナーであるリバー・ペテイン。甲斐甲斐しく動くチームをじっくり後ろから見守る安木の横で、ボイス・レコーダーを向けて話を聞くという形でのインタビューが始まった。
いつもなら、インタビュー取材ではしっかり予習して、用意してきた質問を挟みつつ、基本的には対面でのフリートークでその時々の自然な話のフローに任せるのだが、今回のようなインタビューもなかなかどうして、面白い。
話の最中でも、アシスタントやカメラマンのリバーから声が掛かり、しばしば中断。そこでのスタッフとの生きたやり取りを傍から見ているだけで、チームとして動く現場でのオーナー兼ブランド唯一のデザイナーである、彼女のありのままの姿を感じ取れた。
遡ること10年前の8月某日、ブリスベンのローカル紙にかなり大きく取り上げられていた彼女の記事を読んだ。「1月の大洪水で工房兼倉庫が浸水して、日本人ファッション・デザイナーが甚大な被害を受けた」と、本人の写真とコメント付きで紹介されていた。被害は比べものにもならないが、自身も洪水被害者なので他人事とは思えず、一方的な同胞意識を抱いた。
以来、密かに「dogstar」の成長を見守っていたのだが、ブリスベンの日系社会は狭い。2年ほど前にひょんなことから知己を得たのは、お互いの子どもが打ち込むフットボールの練習場だった。独特なクリエイティブ系の佇まいが印象的だったが、すぐに日本人と分かったので、お約束の「日本の方ですか」のフレーズで話し掛けて、すぐにその女性があの「dogstar」のMasayo Yasukiだと知った時には驚いたものだ。
経験皆無で飛び込んだ世界
北陸・福井で育ち、IT会社に就職していた安木がワーキング・ホリデーでの渡豪を決めたのは「英語の勉強がしたい」というありきたりな動機だった。目的地にしても、当時の英会話教師がブリスベン出身だという理由で決めたというが、そんなブリスベンが彼女の“約束の地”となるのだから、人生というものは分からない。
来豪して3カ月は仕事にありつけず、ようやく得た日本食スーパーのアルバイト先で、その店の常連の大学生の紹介でクイーンズランド工科大学(QUT)の語学学校を紹介された。いざ通い始めると、周りが大学進学のために熱心に勉強するのに触発されて、自ずと大学進学を目指していた。熱心な勉強の甲斐もあり、マーケティング専攻でQUTに入学することができたが、そこでの学生生活も一筋縄には行かない。
「当時よく行っていた、パディントンのお店の店頭に洋服のセール品が山積みになっていて、しかも、オーストラリアで売れずに余っているのはSやXSというサイズばかり。日本で売るにはサイズ感もちょうど良いし、『これは日本で売れるかも』って。ほんの出来心で、学資として用意していたお金を使って買い占めて、福井のブティックに送ったら、これが大好評」。
その評判が回り回って、ラフォーレ原宿などの有名店に商品を卸すバイヤーの耳に入り、いきなり大量ロットでのオーダーが舞い込んだ。あいにく、当該商品のメーカーに在庫はなく、生地だけが残っていた。「だったら自分で作れば良い」と、日本からの大口発注を受け、また学資を切り崩して残りの生地の全てを買い入れた。
ところが、生地はそろっても縫製のスキルがない。商品制作を請け負う工場や縫製職人は、当時の最大の情報源である「イエロー・ページ」と首引きで見つけた。こうして、少々向こう見ずなプロジェクトは動き出した。
しかし、経験も知識もなしに動かしたプロジェクトはいきなり行き詰まる。求められた納期を守れず、契約を破棄されてしまったのだ。発注済み商品のキャンセルも叶わず、行き先を失った大量の商品在庫は、日本での一時的な受け取り先とした在京の友人のワンルーム・アパートに堆(うずだか)く積み上げられた。
「すぐに大学を休学して東京に飛んで、在庫をスーツケースに詰め込んでの飛び込み営業。委託販売やブティックの間借りなど、とにかくあらゆる手段で売りさばくのに必死でした。でも、半年の休学期間を終えてもまだ、かなりの在庫は残ってましたけど……」
失意の内にブリスベンに戻った安木を、まだ残る在庫と使い込んだ学資を稼がなければならない過酷な現実が待ち構えていた。
マーケットを経て、「dogstar」誕生へ
そこで「背に腹は変えられない」と始めたのが、中古のバンを自ら運転してのブリスベン周辺のマーケット行脚。初めは、日本の売れ残りしかなかったラインナップも、ミシンの使い方を見様見真似で学ぶなどの創意工夫で増やしていった。次第に顧客が増え、現在の「dogstar」にも引き継がれる独特のフォルムのワイド・パンツなどのヒット商品を出す内に、やがてマーケットの人気店となっていた。
その後、マーケット仲間とブリスベンのファッションのメッカ、フォティチュード・バレーに小さな店舗を出すというチャンスが訪れたが、ジョイント・ベンチャーでの出店は方向性の違いで1年持たずに解消の憂き目に合う。
「思い切ってビジネス・パートナーの出資分を買い取って、完全に自分のビジネスとしてから営業を始めたのが『dogstar』1号店です」。そこから、新星「dogstar」の輝きが一気に増していく。
そんな「dogstar」が今の規模まで成長できたのは、ブリスベンに来てからの安木がさまざまな出会いに恵まれたことに負うのが大きいのは、本人も認めるところだ。公私いずれでも掛け替えのないパートナーであるリバー然り、未だに付き合いが続くイエロー・ページでコンタクトを取ったベトナム人の縫製職人然り。
店舗を持ってすぐにふらりと店を訪れた日本人女性は、日本の大手アパレル・メーカーに勤めるパタンナーだった。その彼女からは、ファッションに関するあらゆる知識を吸収できた。そこで得た知識がブランドのその後の成長の礎となったことへの感謝の念を、今でも忘れてはいない。
失敗の数だけ成長できる
今や18人の社員を抱えるオーナー・デザイナーである安木は、起業以来、順風満帆とは言えない、自ら「波乱万丈」と形容するようにさまざまな蹉跌を乗り越えてきた。
前述の洪水はよほど堪えたに違いない。そこに話を振ると「洪水ですごい被害を受けた後に、今度は信用していた会計士に騙されて、とんでもない額を着服されていたことが発覚したんですよ」とさらり。まさに「弱り目に祟り目」とはこのことだ。
洪水被害で負っていた財政的危機などの幾つかの要素も相まって、結局、裁判を断念せざるを得なかったことで、被害額はそのまま損害として残った。その時も「もうやるしかないでしょ」と、すっぱり切り替えて前に進むことを選んだ。
「私は自分を成功者だとは思わない。だって、こうやって話をしていても失敗ばっかりでしょ(笑)。ただ、失敗をチャンスに変えるタイミングだったり、切り替えて次に歩み出す瞬間だったりを、逃さずに捉える。そういう第六感的な部分が、少し人より秀でていたのかもしれないかな……。だから、何とか今の規模でやれているんです」。
そんな安木が、どうしても、若者に伝えたいことがあると言う。
「何も知らない世界に無謀にも飛び込んで、失敗ばかりの私でも何とかなった。だから若い人たちには、とにかく諦めないで、と言いたい。社会や企業が求める型にハマってしまって、自分を失わないで欲しいんです」。これまで積極的に世界各地からのインターンを使って、共に若い彼らの「自分探し」の場を提供してきた安木が経験に基づいて強く訴えるメッセージだけに言葉の重みも違う。
きらめく一等星であるために
「dogstar」というブランド名の由来を聞かずには終われない。おおいぬ座の主星・シリウスの別名で、一等星の中でも一番明るい星なことは予習済み。
「そうなんです。夜空で最も明るい星にあやかって、どこからでも目標にされるブランドに育てたいとの思いで付けたんです。シドニーの『ファッション・ウィーク』に出た時『何で、自分の名前をブランド名にしないんだ』って言われたけれど、今更変えられないし。何より、洋服を自分だけで作っているという意識がないので」。そもそも、自らの肩書をデザイナーと思ってないというから驚きだ。
「私、自分で自分を『デザイナー』と思ったことがないんですよ。もちろん、デザインをしているのは私だけど、いつも、クライアントやスタッフと一緒に、『dogstar』の服をその時々に合わせて進化させてきたから」。
起業して24年、「dogstar」誕生からは22年の月日が流れた。大量在庫事件、世界金融危機、ブリスベン大洪水、会計士の着服というこれでもかという蹉跌の連続を、安木と「dogstar」は毎回、確実に乗り越えて、その経験をバネにして力強く歩んできた。
昨年来のコロナ禍でも、仕事に着て行く服があまり売れなくなるなど直接的な影響は出ても、いち早くオンライン販売の強化や、ワーク・フロム・ホームを意識した作品の展開などを行ってきたことが功を奏し、「dogstar」は輝きを増している。
「コロナ禍での売れ線はマスクで、すっかり最近はマスク屋ですよ……」と自嘲すれど、マーケティングに知悉(ちしつ)する彼女だからこそ、コロナ禍の大きなうねりの後の次なる一手をしっかり用意しているはずだ。
これからも「dogstar」がファッション界の一等星として輝き続けるために、安木は何を目指して、どう進化していくのだろうか。