第7回
六十にして、共に立つ。
ブリスベン随一の
おしどり夫婦が語る
書家 小島榮松(舟豊) × 墨画家 小島文子(章竹)
いずれも日本古来の芸術を極め、四半世紀にわたって、その技術をブリスベンや周辺地域の多くの弟子たちに惜しみなく教えてきた小島榮松・文子夫妻。ブリスベン日系社会のおしどり夫婦として知られる彼らに、シニアになってからの移住生活など2人の人生を心置きなく語ってもらった。
(取材=10月12日、取材・文・写真=タカ植松、文中敬称略)
PROFILE
こじまえいまつ/しゅうほう
神奈川県横須賀市出身。1936年生まれ。ブリスベンでの書道の普及活動などが認められ、2021年外務大臣表彰受賞。45年の書道歴を持ち、大日本書芸院9段審査員として後進を指導するかたわら、自らも精力的に創作活動を続ける
PROFILE
こじまふみこ/しょうちく
神奈川県横須賀市出身。1936年生まれ。60歳で来豪した後に始めた書道、墨画で類まれなるセンスを発揮して異例のスピード出世を果たす。墨画では、その大胆な画風で、世界中の展覧会での受賞歴を誇る。国際墨画会ブリスベン支部長
PROFILE
タカ植松(植松久隆)
ライター。「人の数だけドラマがあるとはよく言ったものだ。既に登場を願った人々以外にも、まだまだ色んなドラマを秘めた人がいるはず。連載後半戦も読み応えのあるものをお届けしたい」
“おしどり夫婦”の愛の物語
当連載は、基本的には自らインタビュー対象者をリストアップしてきた。同時に、自力ではレーダーに引っ掛からない取材対象を見流したくない思いから、自薦他薦問わずに情報も募ってきた。今回、登場を願った小島夫妻は、それぞれの書家、墨画家としての輝かしい実績を踏まえ、当初から名前はリストにあった。複数名から推薦も受けた。彼らのように複数から推薦される例は他になく、その事実だけをしても夫妻の人柄がしのばれる。
あくまでも、当初は、令和元年度外務大臣表彰を受けるなど書家として功成(こうな)り名遂(なと)げている小島舟豊(榮松)、墨画の大家としての名声を固めている小島章竹(文子)という2人の芸術家にインタビューするつもりで臨んだ取材だったが――。ブリスベン有数の高級住宅街にある自宅兼教室を訪れての2時間の取材は思わぬ展開を見せた。
ブリスベンをセカンド・ライフの地と定め、そこで長いプラトニックな愛を実らせた榮松の豪州での新生活は、文子の内助の功を抜きにして語れない。これは、異国の地で共に歩み「苦労なんて、全く無いよね」と微笑み合う、ブリスベン日系社会随一のおしどり夫婦の愛の物語なのだ。
ブリスベンで第2の人生を
いつも夫婦そろって公の場所に出る2人のことを「長く連れ添う夫婦」だと勝手に思い込んでいた。思い込みは怖い。共に御年85歳を数える彼らは、榮松が豪州移住後、文子を呼び寄せてから長い春を実らせたカップル(とは言え、今年で結婚25周年)。
「私がこの国に来たのが60歳の時、その年に結婚したから、そうね、96年だから今年で25年よね」と文子が言う。手元のインタビューに先立ち、榮松自身がパソコンでまとめた経歴書には、93年来豪となっているので、2人の移住のタイミングには3年のずれがある。
「この方はね、お勤めが航空会社で定年が少し早くて、57歳の時に独りでね、先に来たのよ。そこに私が後で呼ばれたわけ。それまで、海外なんて行ったことすらなかったのにね(笑)」
長年勤めた外資系航空会社を退職した榮松は、かねてより計画していた「セカンド・ライフは海外で」との夢の実現に動いた。
当初の目的地は同じ豪州のパースだったが、オージーの友人に「パースは地の果て」と諭(さと)された。そのブリスベン出身の友人の提案をあっさりと受け入れた榮松が、単身ブリスベンの地に降り立ったのが93年、今から28年前のことだ。
六十にして……
当初から、彼の移住計画には、“主演男優”の自身と共演する“主演女優”の存在がしっかり想定されていた。その意中の女性に想いを伝え、昭和、平成を跨(また)ぐ壮大な恋心が大団円を迎えられるようになるまでには時間が必要だった。自身の単独移住から3年が経ち、ようやく2人の周辺の状況が許すようになり、「機は熟した」と榮松は一世一代の勝負に出る。
「電話でね、『あなたが必要なんだ、ブリスベンに来て、僕と一緒になってくれないか』ってね、お願いしたんだよ」
その”プロポーズ”を受諾した文子が、ブリスベンに降り立って、ジャカランダが咲き誇る中で2人は残りの人生を共に歩むことを固く誓い合った。現在のブリスベン日系コミュニティーがよく知る「小島夫妻」が、そこに誕生した。その時、2人は共に還暦を迎えていた。
「六十にして耳順(したが)う」。60歳ともなれば、他人の言うことを聞き、素直に理解することができるようになるという喩(たと)えの有名な論語の一節。だが、この2人の場合は少し違う。当然ながら年相応の分別は持ちながらも、世の60歳には思いもよらない冒険に出た。孔子曰く、「三十にして立つ」のところを、彼らは六十にして共に立ったのだ。
お互いを知らない”同級生”
時計の針を75年以上前に巻き戻そう。
共に横須賀市の出身で、同じ国民学校の生徒として学んだ2人。それでも、先の大戦末期、学童疎開の時代では、同じ学び舎で学んだこともなく、当時はお互いの存在も知らなかった。
そんな彼らは、姉同士が同級生だった縁で、お互いが18歳の時、榮松の家を文子が姉と訪れた際に対面、初めて「同級生」だったことを知ったが、戦中戦後の混乱期の学校生活の中でのお互いの記憶はなかった。
「その時に、僕の、いわゆるひと目惚れですね。それからずっと好意を寄せていましたよ。当時、労音って気軽に行けるコンサートがあって、そういう所とかに連れ出すんだけども、手も握れない……。そんな時代でした」
その時は、文子に母親が決めた許嫁(いいなずけ)がいたこともあって、2人の仲にそれ以上の進展はないまま、それぞれ別の人生を歩み始めた。榮松は就職して、やがて結婚。文子も許嫁と所帯を持った。
それでも、完全に離合したかのような2人の歩みも、天の配剤か、ひょんな出来事からまた一瞬の交わりを見せる。
「お互いが所帯を持ってしばらくして、ローカル放送の9人制バレーボール大会の優勝チーム紹介の番組に彼女が出ているじゃない。もう、ビックリでさ。でもうれしかったなぁ。『あー、元気なんだな』って思ったら、いてもたってもいられず、すぐに姉を通じてお祝いの電話をしたんですよ」と榮松は懐かしむ。
その時も、お互いに家庭があり、たったそれだけの接点に終わった。それでも、その件もあって、榮松の「変わらずに一途だった」というプラトニックな思いは、その後も消えることなく心の底で灯され続けた。更に時は流れて、お互いの子どもが完全に手を離れ、2人の家族の状況が新たな関係を許すようになったころには、初老に差し掛かっていた。
仲睦まじい夫婦の秘訣は
「ずっと好意を寄せてくれていたのは分かっていた。だから、外国に行ったことのない私でも行こうという気になれたし、一緒になってから25年、苦労なんてない。(榮松が)英語ができるのもあって、嫌な気持ちになることもなく、本当に楽しいことばかり」と文子が振り返るように、とにかく仲睦まじい2人。
円満な夫婦生活の秘訣を聞いた。
「書道にしてもテニスにしても、好きなことを一緒にやることかな」と言う榮松に、間髪入れず、「どちらも、この人が私の先生だから(笑)」と文子の合いの手が入る。それを、再び榮松が引き継ぐ。
「僕は出し惜しみしないからね。とにかく丁寧に教える。でも、立場が逆だったらどうだったろうかね(笑)」と終始この調子で、顔を見合わせながら相手の言葉を継いでいく2人。まさに、おしどり夫婦の真骨頂だ。
けんかなどはしないのだろうか。
「彼女は怒らない。(結婚してから1度も?)いや、生まれてから1度もだよ。とにかく怒らない」。確かに、文子のその温かい人柄は観音様を彷彿させる。外資航空会社で長年、総務・人事畑を歩んで榮松は、社内でその柔和な人柄から“仏の小島”と呼ばれたように、その物腰はすこぶる柔らかい。観音様と仏様、そんな2人が創り出す空間は、さしずめ“菩薩界”とでも言えようか――。一種独特の居心地の良さがある。
「私たちの教室に来てくれる生徒さんは、全員(人事的な視点から見ても)すばらしい人ばかり。不思議とね、『あ、ちょっとな……』って思う人は続かない。本当に生徒さんには恵まれています」と榮松。
「ここに来て、いろいろ話しながら、皆さん、とにかく楽しんで基本をしっかりと学ぶのよね。だから、ここで教わった人は上達も早いし、外でもしっかり教えられるのよ」と文子。
書家、墨画家としての2人
榮松が、書家の実兄の元に子どもを通わせる内に、子どもたちを差し置き、自ら書道の奥の深さに魅了されてから、はや半世紀近く。今や榮松は、大日本書芸院の9段で審査員。ブリスベンで開いた教室は、弟子が独立したゴールドコーストでも教室を主宰していたころは団体全体でも3番目に多い生徒数を誇った。書家としての実績を確実に揺るぎないものにした榮松は、先にも触れたように外務大臣表彰の栄誉に浴する。
かたや、文子は還暦での海外生活までは、典型的な専業主婦。書道も墨画、そして、テニスも来豪後に始めた。榮松に教えを受けた書道では、大日本書芸院でも他に類のないレベルのスピード出世で、普通は10年以上掛かり、師匠の榮松ですら7年掛かった8段監査員から9段審査員への昇格をわずか2年で成し遂げた。
榮松と共に始めた墨画でも非凡な才能を見せ、今やベテランとして展覧会の常連で、多くの生徒を抱える。”60の手習”からいずれも超一流になったのは才能としか言いようがない。
「字が下手で、タイプなんか習っていたくらいの私が、今じゃ審査員だから。本当に、先生が良かったのよね(笑)」
「いやいや、彼女はねセンスが良いから、本当に上達が早い。墨画だって、本当に大胆な画風で、何も知らない人は僕が描いたと思っちゃうくらい。男性的で力強くてすばらしい絵を描くんだよ」と、どこまでも、この夫婦はお互いを立てる。
人生100年時代に向けて
ブリスベンを中心に長年取り組んできた書道と墨画。どちらも弟子がよく育ち、2人の活動は確実に次世代に引き継がれている。
「生涯現役、体が動く限りは、とは思うけど、任せられる人にはどんどん任せていきたいね」。「(墨画も)お任せできる人たちにどんどんお願いしたいわね」と、共に後継者育成には余念がない。彼らの弟子の中から、独立したゴールドコーストに続き、ブリスベン近郊でも独立して教室を開講する弟子が出てくれば、確実に85歳の彼らの負担も軽減される。
そうやって、少しずつ肩の荷を下ろしながら、ブリスベン随一のおしどり夫婦には、人生100年時代の集大成に向かう。
文子は「私は、3歩下がってとか、そういうのができないのよ」と笑うので、それはいわゆる「夫唱婦随(ふしょうふずい)」ではなく、あくまでも小島夫妻流の自然体でだ。
85歳、まだまだ若い。人生100年時代、あと15年、彼らの物語は更に続くとすれば、僕らはまだあとどれくらい彼らにインスパイヤされるのだろうか。