福島先生の人生日々勉強
会者定離(えしゃじょうり)
「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)」という故事があります。
「昔、中国北部の国境の塞(とりで)付近に住んでいた老父の馬が敵地である胡に逃げたがそれを災難とせず、数ヶ月後、胡の駿馬を連れて帰って来たときもそれを慶事とせず、のちに老父の息子がその駿馬から落馬して足を負傷したが、おかげで兵役を逃れて生き延びることができた。その間、老父は終始穏やかであった」というお話を由来としています。改めて紹介するまでもないほど至る所で目にする故事成句です。故事同様、日常で起こる良いことも悪いこともそれを受け入れ、一喜一憂せずに前に進んでいきましょうということで、座右の銘にしている人も少なくありません。何かあれば喜びもし、落ち込みもするのが人間ですからそれ自体がいけないというわけではなく、良いことも悪いことも因果関係でつながっているのですから、心を冷静に、我を見失わないようにいることが大事です。
なぜ一喜一憂に意味がないのか。それは私たちの生きるこの世が無常であるからです。無常というと、どうしても寂しさや虚しさがついて回ります。今あるものはいつか消えてなくなってしまうという面だけを捉えるので、そう感じてしまうのでしょう。しかし、無常には喜びもあります。出会ったものとはいつか別れが来ることを「会者定離」といいますが、それと同じだけ出会いもあるということ。出会わなければ別れることもできないわけです。出会ったものと別れ、新たに出会い、そしてまた別れがあって、というように人生は続いていきます。その人生にも例外なく終わりがありますが、この世界にはまた新しい生命も誕生します。無常ゆえに出会い、別れ、無常ゆえに生を享け、死にもする。良いことも悪いこともひっくるめて巡っていく。全ては移ろいゆくということです。
すなわち世の中は何かを得れば何かを失い、何かを失えば何かを得るという無常の上の因果構造になっているという真実にさえ気づくことができれば、目の前の現実において、他人との比較より、自分の時間軸で 物事の善し悪しを捉えた方が、世の中がよりクリアに見え、思い悩む時間を短くすることができるのではないでしょうか。得がたいものを誰かに譲ったとき、自分は失ったのではなく、手放したことで他の誰かを幸せにし、結果自分の心が尊いもので満たされたと捉えれば、真逆の感情が生まれます。現実に執 着せず新たな時の流れに乗る、あるいは時の流れを自分で生み出すくらいの気概を持って、前向きに人生を生きていきたいですね。
このコラムの著者
教育専門家 福島 摂子
教育相談及び、海外帰国子女指導を主に手掛ける。1992年に来豪。社会に奉仕する創造的な人間を育てることを使命とした私塾『福島塾』を開き、シドニーを中心に指導を行う。2005年より拠点を日本へ移し、広く国内外の教育指導を行い、オーストラリア在住者への情報提供やカウンセリング指導も継続中。