オーストラリアの日系コミュニティーで活躍するローカル人に話を伺った。
第6回 イアン・ウィリアムスさん
Ian Williams
1本のトライが人生を変えた
1991年1月8日、東京・秩父宮ラグビー場で行われた神戸製鋼(神鋼)対三洋電機の全国社会人大会決勝戦。試合終了間際、神鋼の右ウィング、イアン・ウィリアムス選手は約50メートルを独走して劇的な同点トライを決めた。日本ラグビー史に残る伝説の名勝負から28年。現在は大手法律事務所ハーバート・スミス・フリーヒルズのパートナーとして、日豪間の大型M&A(企業の合併・買収)や合弁事業を手掛け、日豪のビジネスの架け橋となっている。(聞き手=守屋太郎)
――ラグビーを始めたきっかけは?
キャンベラで生まれ、大学教授だった父の仕事の関係で3歳から12歳まで米国のカリフォルニア州で過ごしました。野球に熱中し、フラッグ・フットボール(アメリカン・フットボールの1種)やバスケットボールもプレーしました。
帰国後はシドニーに住み、夏は野球、冬はラグビー(15人制)に打ち込みました。カリフォリニアもシドニーも温暖な気候に恵まれ、スポーツには理想的な環境だったのです。高校時代、陸上の100メートル走で10.83秒を記録しました。当時のラグビーはアマチュア・スポーツ。私にとっては、あくまでも趣味で楽しむものでした。将来の仕事のためにニュー・サウス・ウェールズ大学で経済学と法学を専攻したのです。
――学生時代からラグビー・オーストラリア代表「ワラビーズ」の一員として活躍します。その後、日本の神鋼に入社したきっかけは?
卒業後1年間、法律事務所に勤務した後、奨学金で英国のオックスフォード大学に進み、政治と経済を学びました。同大学のラグビー・チームの一員として、88年に交流戦のために初めて日本を訪れました。この時、神鋼ラグビー部の強化に尽力していた亀高素吉・社長(当時)に「ウチに来ないか?」と口説かれたのです。神鋼は当時、大八木淳史さんや平尾誠二さん(2016年に53歳で逝去)といった強豪選手を次々と獲得してチームの強化に努めていました。私は89年に入社し、当時は「外国人選手は1年間、試合に出場できない」との規定があったため、翌年から試合に出場しました。
サラリーマンとしては、海外プロジェクトの法務を手掛けました。社員はほとんど英語を話せず、私もそれまで日本語を学んだことがなかったので、最初のころは非常に孤独でした。でも、周囲の人たちはとても親切にしてくれました。特に英語が流暢だった平尾さんにはお世話になりました。入社から1年半は6畳1間の独身寮に住み、若手社員と同じ生活を体験しました。コンセンサスを重視することや上下関係の大切さなど、日本のビジネスやスポーツの文化、人付き合いを学ぶことができたのは、とても特別な体験でした。
――91年1月の全国社会人大会決勝戦。三洋電機16対神鋼12で迎えたロス・タイム、ハーフウェイ・ラインの手前で平尾選手のパスをつかんだウィリアムス選手は、三洋電機の猛追を振り切って約50メートルを疾走。ゴール真下に奇跡の同点トライを決めます。神鋼の細川隆弘選手が逆転のコンバージョン・キックを決め、神鋼は3連覇を達成。黄金時代は7連覇を達成した95年まで続きます。
当初はこの1週間後の日本選手権で契約が切れ、オーストラリアに帰国することになっていました。しかし、このトライを機に日本に残ることになります。
試合は75分ごろまで、パワーを誇る三洋電機が、技術とスピードを持ち味とする神戸製鋼を圧倒。しかし、神戸製鋼は走りまくって相手にプレッシャーを与える戦略に出ます。ロス・タイムに入って約3分、ようやくチャンスが訪れたのです。
翌日のスポーツ新聞は今も保管しています。1面に「ウィリアムス逆転!」の大見出しが踊っていますが、これは大誤報なんですよ(笑)。正確には、細川選手のキックで逆転したのですから。
ノーサイドのホイッスルが鳴ると、夕闇が迫るフィールドでは両チームの皆が涙を流していました。現役時代、国際試合も含め500試合以上プレーしましたが、私のラグビー人生で一番記憶に残っているのは27歳の時のあのトライ。それが後の私の人生を変えました。
――その後、25年以上にわたり企業弁護士として日豪のビジネス交流の促進に寄与してきました。
神戸製鋼が6連覇を達成した94年1月、ラグビー・ジャージを脱ぎました。31歳の体は長年のラグビーで傷付いていました。優秀なウィングの増穂輝則選手がチームに加入し、道を譲るには良いタイミングだと考えました。
引退後は東京本社の企画部に1年間勤務しました。日本の大企業での予算や意思決定に携わり、良い経験をさせてもらいました。95年にオーストラリアに帰国し、今の会社に入りました。1年くらい働いて日本の商社に転職するつもりでしたが、結局、25年間、次の仕事を見つけることができませんでした(笑)。
――日本企業でサラリーマンとして働き、ラグビーをプレーした経験はどのように生かされていますか?
若い時に日本で仕事した経験から、人の話を聞くことと、周囲の状況を理解することの大切さを知り、西洋と日本の交渉スタイルの違いを学びました。西洋では自分の考えを主張することが美徳ですが、日本では周囲の状況を理解する能力が求められます。どちらが良い、悪いということではなく、文化の違いを理解することが重要なのです。
ラグビーでは、各選手が異なるスキルを持っているということを学びました。例えば、私は小柄だが足が速い一方、別の選手は大きくてパワーがある。私は彼のようにはなれないけど、彼も私のようにプレーすることはできない。チームが最大限の結果を出すには、皆が持つ異なるスキルをうまくコントロールする必要があります。こうした能力は、スポーツでもオフィスにおいてもとても有効なのです。
――現在の弁護士としての仕事について教えてください。
日豪の企業のM&Aや合弁事業のお手伝いをしています。10年ほど前までの日豪のビジネス関係は、オーストラリアにとって日本は資源・エネルギーや食糧の輸出先、日本にとってオーストラリアは資源の安定供給源、というのが主な認識でした。近年、日本企業が豪州企業を買収して国内市場に参入するという新しいトレンドが現れてきています。
私がお手伝いした例で言えば、キリンホールディングスによるライオン(酒造大手)やナショナル・フーズ(食品大手)、デアリー・ファーマーズ(乳製品大手)の買収。最近では日本郵政によるトール・ホールディングス(物流大手)買収、日本ペイントによるデュラックス(塗料大手)買収などの大型M&Aが相次いでいます。海外で成長を目指す日本企業にとって、人口増加が見込め、経済成長も堅調なオーストラリアは市場としての魅力が増しています。日豪のビジネス関係はかつてないほど力強く、かつ多様化していると言えるでしょう。
――9月に日本で開催されるラグビー・ワールド・カップに向け、大先輩として日本代表にアドバイスを。
私が日本でプレーしていた時と現在で一番違うのは、若い選手が日本代表として世界に出たいと考えていることです。ラグビーのプロ化や、「サンウルブズ」のスーパー・ラグビー(ラグビーの国際大会)参加の影響もあり、日本のラグビーの水準は格段に向上しています。
ただ、日本代表に対する期待は大き過ぎると思います。メディアの盛り上がりや高すぎる期待を気にせず、2015年大会で見せたような、パワーとスピードを生かした質の高いラグビーに専念して欲しい。日本が一次リーグで対戦するのは強豪ばかり。日本にはスタイリッシュなプレーを見せて欲しいですね。
――これまでの人生を振り返り、将来の目標は?
オックスフォード大学のチームの一員として初めて訪日した時、日本に住み、日本に関わる仕事に就くとは想像もしていませんでした。仕事人生の大半で日本とお付き合いできたことは、とても幸せですし、「奇跡のトライ」だと思っていますよ。
ラグビー選手、企業弁護士に続く第3の人生は、日本企業と合弁事業を行うオーストラリア企業の社外取締役として活動したいと考えています。これまで30年間、オーストラリアと日本で培ってきた経験を生かしたいですね。