メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか――。
第39回 ユーレカの反乱(Eureka Rebellion)
ユーレカの反乱は、ゴールド・ラッシュ最盛期の1854年にバララット市内東側の金鉱床の1つ、ユーレカ集積所(Eureka Stockade)で起こった金鉱山鉱夫による蜂起だ。オーストラリア史上最大の民衆蜂起とも言われ、民主化に大きく貢献した。
当時バララットでは、ゴールド・ラッシュによりやって来た6万人の金鉱夫が至る所で採掘を行い、酒による暴力事件も多発していた。そこで51年11月にメルボルン植民地政府は、金採掘ライセンス費を3倍に上げると発表。53年には、金鉱山法(Goldfields Act)が成立した。
そうした政府の規制に対して、バララットに限らず金鉱山地区の広範囲で反対運動が始まった。鉱夫たちは多額の税金を課されていたが、自治権は認められず、土地の購入も許されていなかったのだ。
54年10月6日に、スコットランド人鉱夫がユーレカ・ホテルで何者かに殺害されると、数千人の金鉱夫がホテルに押し寄せた。バララット市郊外のベーカリー・ヒルには1万人を越える鉱夫が集まり、バララット改革同盟を結成。反乱軍には英国やアイルランドでの民主化運動経験者も含まれ、課税される者には自治の代表者を送る権利があると主張し、参加者は1万2,000人にも上った。反乱軍はアイルランド人鉱夫が中心であったが、米国の鉱夫も交じっており、米国製の拳銃などで武装していた。
反乱軍は、ユーレカの南十字星の旗を掲げた。カナダ移民の女性3人に縫われた旗は、54年11月29日にベーカリー・ヒルに立てられた。生地はシルク、色は青、大きなシルバーの十字が描かれ、植民地時代のオーストラリアの民主化の象徴となった。
そして12月3日早朝、300人の政府軍がユーレカ砦(とりで)を攻撃。激しい戦闘となったが、反乱軍は数時間で鎮圧され、金鉱夫側には30人の死者が出た。戒厳令が宣言され、13人の金鉱夫が反逆罪で起訴された。
しかし、ビクトリア植民地政府は画期的な判断を下した。金採掘ライセンスを廃止し、鉱夫の権利法を制定したのだ。鉱夫には投票や土地所有権などが認められた。
ユーレカの反乱の歴史を残す物として、メルボルン市内には南半球で一番高いユーレカ・タワーがある。建物の金色の冠はゴールド・ラッシュを、赤いストライプは反乱軍の血を、ガラスの青い被服カバーはユーレカ旗の背景色を、白いラインは十字架を表している。2005年の州首相スティーブ・ブラックスは、自由と民主主義を象徴しているとして、メルボルンの玄関駅スペンサー・ストリート駅の名称を、ユーレカ旗の南十字にちなみサザン・クロス駅に変更した。
移民が始まって20年、日本が江戸末期の頃、メルボルンの政府、司法、民衆がリベラルで民主的だったことは注目に値する。
文・写真=イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表
東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営