ウイリアム・バックレー/マーベラス・メルボルン

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第63回 ウイリアム・バックレー

 メルボルンはかつて世界一の金持ち都市となり「マーベラス・メルボルン」と呼ばれた栄華の時代があった。メルボルンを首都としたオーストラリア連邦政府ができる1901年までの50年間、メルボルンっ子はいかにして驚異のメルボルンを作り上げていったのか—。

バックレーが32年間暮らしたベラリン半島

 メルボルン初期の移民時代に、アボリジニと過ごした初めての白人であるウイリアム・バックレーの数奇な話である。

 バックレーは英国チェシアー州マートンに生まれた。レンガ職人を経て、軍隊に入り、ナポレオン戦争に従軍したが、負傷のためロンドンで除隊した。ある日、知人女性に頼まれて持っていた布類が盗難品であるとして逮捕され、豪州に終身刑の流刑になった。

 18~19世紀にかけて英国では、「血の法典(Bloody Code)」と呼ばれる厳格な刑罰があり、重い罪は死罪、軽微な罪でも流刑が課された。刑務所は囚人で満杯になり、テームズ川は囚人船であふれた。多くの囚人は米国に送られたが、米国合衆国独立のために流刑先がなくなり、1770年にクック船長が発見していた豪州を新しい流刑先に選んだ。


 バックレーは、1803年のコリンズ大佐の最初のビクトリアへの移民団のメンバーであった。移民団が失敗して、タスマニアへ移動する際、バックレーなど3人の囚人は逃亡し、2人は豪州における唯一の居留地シドニーへと徒歩で向かったが、バックレーは体力がなく、同地に留まることを選んだ。バックレーは、メルボルン湾岸を1人歩き続け、数カ月後にアボリジニのワタウルング族の人びとに出会った。

 バックレーの年齢と融和な行動、198センチの長身のおかげで、長老として尊敬を集め、32年間、メルボルンの東南部にあるベラリン半島でワタウロング族と暮らした。

 争いや平和を決めるような際には、バックレーの意見が重要視され、アボリジニの武器の達人となったが、部族の争いに加わることは禁じられた。バックレーは2人の妻を持ち、娘もいた。

 35年7月、ジョン・バットマンをリーダーとする不法なメルボルン移民隊がベラリン半島に上陸したことをアボリジニの仲間がバックレーに伝えた。バックレーはアボリジニの一団を連れて、不法移民隊のキャンプ地であるインテンデッド・ヘッドに現れた。カンガルー皮の帽子を被り、アボリジニの武器を携えて、キャンプ地に歩いて入って来た。3人の英国人とシドニーから連れてこられた5人のアボリジニの案内役がキャンプ地にいた。バックレーはほとんど英語は忘れていたが、30年間の驚異の体験談を移民隊に語った。バックレーはその後、タスマニアで静かに暮らした。

 バックレーの逃亡の罪は、タスマニアのアーサー総裁によって赦免された。

ベラリン半島先端のクイーンズクリフと対岸のソレント
インテンデッド・ヘッド近くのポート・アーリントン

このコラムの著者(文・写真)

イタさん(板屋雅博)

イタさん(板屋雅博)

日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表。東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営。

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