5月下旬、東京五輪柔道銀メダリストの渡名喜風南選手(柔道48キロ級)が柔道教室のため、来豪した。日豪プレスでは5月22日、来豪中の同選手への独占インタビューを敢行。銀メダルを獲得した東京五輪を始め、試合への臨み方や独自の柔道への思いを語って頂いた。
(インタビュー:阿部慶太郎、撮影:馬場一哉)
渡名喜風南(となきふうな)
9歳から柔道を始め、修徳高校年生の時にインターハイで準優勝。2017年の世界柔道では優勝。その後、18、19年と連続で準優勝を果たした。2020年デュッセルドルフでのグランドスラムで準優勝し東京五輪代表に内定。翌年に延期された東京五輪で銀メダルを獲得した。148センチと小柄ながら、足技寝技で相手を圧倒する。パーク24所属。1995年生まれ、神奈川県出身
――今回の来豪の目的ときっかけについてお聞かせください。
「シドニーをベースに柔道教室『UTS JUDO』を主催しているロマン・ガライさんにお声掛けいただいたのがきっかけです。ロマンさんは国際柔道連盟の大会によく顔を出されていて、いろいろな国の選手と仲良くされている方です。今回は、彼の主催する柔道教室に招かれる形で越させて頂きました」
――遠征の多いお仕事だと思いますが、オーストラリアは初めてですか?
「初めてです。オーストラリアの柔道は発展途上で、これまでなかなか来る機会がなかったので、来ることができてうれしいです。滞在は1週間程度でしたが、柔道教室で多くの子どもたちを相手にレッスンを行いました。総勢80人くらいの子どもたちを相手にしましたが、意欲的な子がたくさんいて、いろいろと聞いてくれるので教えやすかったです。日本人だと質問することをためらう子も多いのでその点に感心したのと、上手な柔道をしている子が多くてびっくりしました。日本の子どもたちよりも上手な柔道をしていた印象と、あと体格が大きく、力も強かったですね」
―― プライベートで印象に残ったことはありましたか?
「カイアマまで連れて行っていただいた時に雨が降ってしまったんですが、そこで虹が2本掛かったんです。虹が2本掛かるのを見たのは初めてだったので癒されました」
東京五輪、日本勢初のメダル
――渡名喜選手はもともと格闘技をやられたかったと聞いています。
「おっしゃる通り、本当は格闘技をやりたかったのですが、母が『女の子なので顔を殴られたりするのはイヤだ』と言ったので、空手と柔道の道場に観に行ったのです。その時に『柔道カッコいい』と思って始めました。その道場がたまたま強い所で、当時は知らなかったのですが63キロ級の田代未来選手や52キロ級の中村美里選手に教えてもらっていました。普通に男子選手を投げ飛ばしたりしていたので強かったですし、カッコよく見えました。今思えば大きな影響を受けました」
――小柄だったこともあり、やはりご苦労もされたのでは。
「ええ。身体が小さかったので、なかなか勝てなかったのは大変でしたね。でもそれが頑張るきっかけになりました。負けず嫌いだったので、勝ちたいという気持ちをより強く持てるようになりました」
――多くの大会で頭角を表していく中、2013年に東京でオリンピックが行われることが決まりました。当時、東京五輪の代表になることは意識されましたか?
「それは強く思いました。2016年のリオには出られなかったので、次の東京オリンピックには必ず出るつもりで練習していました」
――2020年2月、東京オリンピックの代表選考会となるグランドスラムに出場し2位となり東京オリンピックの代表に選ばれました。どのようなお気持ちでしたか。
「出ることも目標でしたが、メダルを獲ることが1番の目標なので、ここがスタートと思いました。うれしくはありましたが、一喜一憂はしないようにしていました」
――その後すぐに新型コロナウイルスの蔓延により東京オリンピックが1年延期になってしまったわけですが、スポーツ選手にとって大事な大会が1年延期になるというのはコンディション的に悪い方へも行きかねないと思うのですが、どのようなモチベーションで過ごしてたのですか?
「代表に内定というのは変わりなかったので、ライバルたちの研究に時間を使いました。代表に内定してからオリンピックまで本当なら5カ月ほどしかなかったのですが、1年多く相手選手の研究に時間を費やせたので、延期は決して悪い事ではありませんでした。時間が無くて切羽詰まっていた部分もあったので、逆にありがたかったです」
――結果的に東京オリンピック日本勢では大会1号となる銀メダルを獲得、表彰台に上がったわけですが、その時はどんなお気持ちでしたか?
「やっぱり金メダルが欲しかったなという思いでした。ただ、まずはオリンピックの畳に無事に立てたことを良かったと考えなければと」
「死ぬこと以外かすり傷」
――渡名喜選手の座右の銘に「死ぬこと以外かすり傷」という言葉があると聞いています。きっかけは何だったのでしょう。
「大学1年生の時にケガをして、試合でも1回戦で負けあるなど勝てない時期が続いたのですが、その時に母がどこかで耳にして、私に伝えてくれた言葉です。1回戦で負けようがそんなことで落ち込まなくても良いんじゃない? って」
――なるほど。ケガということでいうと、2022年は怪我もされて、満足に競技をすることができなかったと聞いています。
「ええ。なるようにしかならないと思っていましたし『死ぬこと以外かすり傷』じゃないですが、それが自分の人生なので、自分ができることをやろうと思ってやっていました。いろいろな個所をケガしてしまいボロボロになっていたので、とりあえずいったん全部治そうという気持ちでした。オリンピックも終わり、肩の荷が下りた瞬間にいろいろな箇所に負担を掛けていたことに気付きました」
――ケガの治療中である現在はどのように過ごされているのですか?
「友達と飲みに行ったり、アスリートではない同世代の人たちと同じことをしながらゆっくり過ごしています。今まで友達とご飯に行っても減量や身体のことを考えながらでなかなかできなかったので……。次の日の朝のコンディションを考えながら食事をしていたことを考えると、好きなものを好きな時間に食べるなんて今まではできませんでした(笑)」
――これからも選手生活は続いていくわけですけれども、次の目標はありますか?
「まずはケガの完治ですね。また、今まではどうしてもオリンピックで勝つことを目標になど、柔道を楽しんでやってこられなかった側面もあったので、これを機に少しずつでも楽しんでできるようにしたいです」
――最後に本記事を読んでいる読者の方にメッセージをお願いします。
「私がいつも思っているのが、『挑戦しないと始まらない』ということ。何かしてみたい、と思ったら、失敗してもいいのでまずは挑戦し、そこから反省すればいいと思います。上手くいけばそれでいいですし、成功しても失敗しても全部自分のためになるので、何かしたいと思ったら必ず行動して欲しいなと思います。最近の日本人は失敗を恐れて行動しない、できない人も多いと思うので、まずは挑戦してみて欲しいと思います」
――本日はありがとうございました!