1835年にメルボルンへの植民が始まった。英国から大量の物資や移民を積んだ大型帆船がメルボルン湾(ポート・フィリップ湾)に停泊し、中・小型帆船に積み替えて、メルボルン最初の港である現在のクイーンズ・ブリッジまでヤラ川をさかのぼってきた。しかし船を直接岸壁に着ける施設がなかったので、ヤラ川の真ん中に停船して、ボートによって人力で荷揚げしていた。
メルボルン港の将来性に着目したジョージ・コール船長は、植民地政府に請願して、波止場建設の許可を得た。8万ポンドの私費を投じて、1841年に現在のメルボルン水族館前のヤラ川北岸にメルボルンで最初の波止場を造った。
コール船長の波止場はキング通りとスペンサー通りの間でメルボルン税関の近くにあり、蒸気船が行き交うメルボルン随一の繁華街となった。多くの貨物が桟橋の手押しワゴン車に直接荷下ろしされた。シドニーやタスマニアからの小型帆船も急増していたので、波止場で船舶から使用料を取るコール船長のビジネスは大きな成功を収めた。
コール船長は、英国出身で14歳の時に海軍に入隊し、10年間の勤務を経て中尉で除隊したが、米英戦争など数々の戦役に参加した。退役後、帆船を購入して、ハワイで鯨取りや宝石、麻薬などの貿易ビジネスを次々と成功させ、1840年に47歳でメルボルンに移住した。コール船長は船舶や造船、貿易の知識が豊富である海運ビジネスマンであり、風雲児であった。
メルボルンへの植民開始から5年後の1840年当時、47歳のコール船長はメルボルンの開拓者たちの間では最年長者だった。メルボルンの最高権威者チャールズ・ラトローブ総督は39歳、裁判所長官ウィリアム・ロンズデール大佐は40歳、メルボルン最初の開拓者ジョン・フォークナーは37歳であった。コール船長は、尊敬を込めて他の開拓者たちから“オールド・キング・コール”と呼ばれた。
コール船長はメルボルンの海運業の先覚者であり、いずれ帆船の時代は終わり、蒸気船の時代が来ると予測していた。帆船の場合、港に到着後荷物と旅客の募集を始める。十分な貨物や旅客が集まったうえで、更に天候が安定してから出発するが、蒸気船はスケジュール通りに運行が可能だ。旅客や貨物は船の到着を待たずに予約が可能になった。
初期の外輪式蒸気船は操作性の良さで河川や港湾で非常に実用的であったが、外洋では外輪が原因で横揺れが発生した。大きな外輪は水深が浅い場所では使えず、貨物積載量が少ないなど実用性の面で問題が多かった。1840年ごろにスクリューやプロペラが登場し、欧米で実用化された。スクリューやプロペラは常に水中にあるため船の横揺れに影響されず、貨物積載量も多く、すぐに外輪船に取って代わった。
初期の蒸気エンジンはパワーが小さく、外洋を航海するには不十分であった。そのため、蒸気エンジンは入出港時などの補助的な動力として活用され、外洋では主にセール(帆)が使用された。
コール船長は、波止場や保税倉庫の運営と共に、ポート・フィリップ海運会社の社長を務め、最新型の蒸気エンジンを英国や米国から輸入し、多くの蒸気船を建造・運用した。かつて蒸気船の造船所は現在のクラウン・カジノの場所やサウス・メルボルンにあった。
1853年にペリー提督率いる米国の外輪式蒸気船、いわゆる黒船が江戸湾に現れたが、コール船長は1851年に南半球で最初のスクリュー式蒸気船であるメルボルン号など数隻を建造し、メルボルンからジローン、シドニー、タスマニア間を、毎月数便で定期運航していた。コール船長がいかに先見の明があったかが分かる。
ゴールド・ラッシュが始まり、コール船長の港湾・船舶事業は、大いに発展した。コール船長は、銀行、石炭鉱山会社を経営し、英国の保険会社ロイド協会の代理人でもあった。現在でもメルボルン水族館前は、“コールズ・ワーフ(Cole’s Wharf)”と呼ばれている。コール船長は、メルボルンの歴史の中で最も優れた人物の1人であると思う。
このコラムの著者(文・写真)
イタさん(板屋雅博)
日豪プレスのジャーナリスト、フォトグラファー、駐日代表。東京の神田神保町で叶屋不動産(Web: kano-ya.biz)を経営