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1915年のガリポリ上陸とは、どんな戦いだったのか?

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多大な犠牲の末に撤退 作戦失敗も大戦の戦局に影響与えず

1915年8月9日、ガリポリ半島での連合軍の反攻作戦「ローン・パインの戦い」で、オスマン帝国の塹壕に侵攻したオーストラリア軍兵士(Photo: Australian War Memorial)

 アンザック・デー(4月25日)の由来となり、オーストラリア人のアイデンティティーに影響を与えたガリポリ上陸作戦とは、どんな戦いだったのか?

 オーストラリア戦争記念館の史料によると、第1次世界大戦の開戦に伴い1914年8月にオーストラリア軍に入隊した新兵の多くは、エジプトに送られた。同盟国(ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国=現在のトルコなど)側のオスマン帝国が、中東やスエズ運河の英国権益に脅威を与えていたため、連合国(英国、フランス、ロシア、オーストラリア、ニュージーランドなど)側としては、これを阻止する狙いがあった。

 連合国は、黒海と地中海をつなぐ要衝、ダーダネルス海峡を制してガリポリ半島に上陸して北へ進軍し、オスマン帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を一気に占領する計画を描いていた。カイロで4カ月半の訓練を受けたオーストラリア軍の新兵は、この作戦を支援するため、船でガリポリ半島沖のエーゲ海に展開。ニュージーランド、英国、フランスの軍と合流した。

 戦端は4月25日未明に開かれた。オーストラリア兵らはオスマン帝国軍の猛攻撃を受けながらも、エーゲ海に面した半島南西部の砂浜「アンザックの入江」に上陸し、橋頭堡を築いた。ところが、オスマン帝国軍の激しい反撃に遭い、行く手を阻まれた。連合国側は約8カ月間に及ぶ壮絶な戦闘の末、12月末に撤退。オーストラリアは戦死者8,141人を含む2万6,111人の死傷者を出した。

 アンザック・デーは翌1916年、ガリポリで命を落としたオーストラリア兵を追悼する日として定められた。現在では、その後の第2次世界大戦の欧州戦線や対日戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガニスタン戦争などオーストラリアが参加したすべての戦争で、国のために命を捧げた兵士を称える記念日となっている。

 なお、ガリポリ上陸作戦の失敗は、大局的な戦況には影響を与えなかった。第1次世界大戦は1918年、連合国側の勝利で幕を閉じた。敗戦をきっかけに、かつて欧州から中東、アフリカまで支配したオスマン帝国は滅亡。広い国土を失い、現在のトルコに置き換わった。欧州列強が旧オスマン帝国領土を線引きし、分割したことが、後の中東情勢の混乱につながったと言われている。

■ソース

Gallipoli(Australian War Memorial)





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