検索
Close this search box.

徹底的に顧客の悩みに寄り添い、ゼロから立ち上げたスキン・ケア・ブランドを90億円企業に─b.glen創業社長 児玉 朗さん

SHARE
世界各国の日系メディアと協業しインタビューを敢行!
世界で活躍する日本人ビジネスマン


 独自の「浸透テクノロジー」で女性の肌の悩みを解決する、カリフォルニアはオレンジ・カウンティー発のスキン・ケア・ブランド「b.glen」。2005年に同社を創業して、年商90億円企業にまで成長させた創業社長・児玉朗さんに、成功に至るまでのストーリーと今後の活動について伺った。 取材:『ライトハウス』

――アメリカに移住した経緯は?

 大学時代に行った友人とのアメリカ旅行がきっかけでアメリカが好きになり、「留学でも旅行でもなく、ここで生活をしてみたい」と思うようになりました。帰国後、「アメリカに移住するなら日本の大学を卒業し、駐在員として渡米するのが最良の道」という父のアドバイスもあり、その可能性のあったキヤノン販売(※現キヤノン・マーケティング・ジャパン)に就職。そこでの営業成績が認められ、入社3年目に駐在員としてニューヨークに赴任したのが私のアメリカ生活の始まりです。

ニューヨーク駐在時代の児玉さん


 コピー機の営業が任務で、当時110階建てのワールド・トレード・センター・ビルを訪れ、上から下まで全フロアのドアをノックして降りるという、いわゆる飛び込み営業をしていました。英語はほとんど話せませんでしたが、当時の日本経済が好調だったこともあり、日本製のコピー機は「営業すれば売れる」ような状況。「英語もできないのに結果は出す」とヒーローのように扱われ、ニューヨーク生活はまさにバラ色でした。

――カリフォルニアに移住したのはなぜですか。

 転勤辞令です。カリフォルニアに移ってからは一転して人間関係がうまくいかず、仕事の結果も出ず、次第に虚無感を感じるように。でもそのおかげで「自分はセールスマンになるためにアメリカに来たのではない」と気付き、自身のビジネスを始めようと思い立ちました。最初は会社勤めを続けながら、輸出入のビジネスを始めました。会社員としての収入があるので、新ビジネスの利益はそのまま残り、数年で1億円を貯められました。それが次のビジネスの資金となり、いくつか事業を手掛けました。90年代にはインターネットと出合い、ビジネスにするべく試行を重ねましたが、IT業界の展開のスピードの速さについていけず挫折しました。また、2000年頃、「次はバイオの時代だ」という言葉を信じてバイオ・ビジネスにトライしたこともあります。

 紆余曲折を経て「b.glen」を始めることになったのは、03年にブライアン・C・ケラー博士と出会ったことがきっかけでした。当時、彼は「ドラッグ・デリバリー・システム」という浸透テクノロジー(皮膚から製剤を浸透させる技術)で薬剤の開発をしていたのですが、その後しばらくして彼から連絡がきて、「ドラッグ・デリバリー・システム」を使ってビタミン・セラムを作ったというのです。
彼と会って話を聞いて「これは大きなビジネスになる」と直感した僕が、自分に販売を任せてくれるよう頼んだのがb.glenのスタートです。そして、04年くらいから日本でこのビタミン・セラム
の販売を始め、日米を頻繁に行き来するようになりました。

――「b.glen」どのようにして大きく成長したのでしょうか。

 「b.glen」は、「女性の肌の悩みを解決するソリューションプロバイダー」として主に日本で成長していったのですが、そのきっかけは事業を始めてすぐ、当時7歳だった息子がてんかん発作を起こすようになったこと。入退院を繰り返す息子と過ごす中、「この子がいると僕は日本に出張に行けない。アメリカにいながら日本でビジネスができる体制にしなくては」という思いでeコマースを始めたんです。


 最初は「mixi 」( 趣味、興味をユーザー同士でシェアするSNS)でのコミュニティー作りから始めました。女性がどのような肌の悩みを持っているかを知らなくては、それを解決するソリューションの開発も、売ることもできないと考えたからです。「セレブの美肌法」というコミュニティーを作ると、すぐに多くの女性たちが悩みを共有してくれるようになりました。そして、それに対する解決法を調べて回答するということを続けるうちに、僕は美容のカリスマ的存在になっていったんです。そして、「mixi」でつながった女性たちに自社製品を薦めると同時に、女性のさまざまな肌の悩みを商品に落とし込んでラインナップを増やしていくことで、多くの人に喜んで頂けるブランドへと成長していきました。あわせて検索エンジンと連動した広告に予算を割き、ECサイトに多くのお客様を誘導することで、売上を上げていきました。ちなみに、「b.glen」は、世界各地のカスタマー・サービスを24時間365日稼働させています。これは「いつでもあなたのそばにいる」というメッセージで、早朝でも深夜でも世界中どこにいても、スキン・ケアに悩む女性に寄り添っています。

――約20年の間、苦労や挫折はなかったのでしょうか。

オレンジ・カウンティーのビーチ・シティ、ハンティントン・ビーチのオフィス・ビル内にある米国本社

 2019年、売上が90億円に達して「さぁ、100億行くぞ!」となったころ、売上が止まる感覚がありました。そこで香港、中国、シンガポール、フランス、そして台湾など、海外進出に次々とトライしましたが、シンガポールとフランスは3年で撤退。特にフランスは、最後まで現地の女性の肌の悩みをつかめませんでした。現在は中国、台湾、香港、日本とアメリカの5拠点で、美容医療の領域を拡大しています。

 この時代に本社を米国に置いていることは、人件費負担が増え、厳しい面もあります。ただ私には、20年以上一緒に働いてくれている家族のような社員がたくさんいます。自分は長男で、やはりみんなを引っ張っていきたいという「お兄ちゃん気質」があるようで、円安は厳しいですが「こんな時もあるよね」という気持ちでいます。

―――人生のターニングポイントを挙げるとしたら?

 何か大きな外的要因があったというよりは、人生が好転する時にはいつも大事な「出会い」がありました。「b.glen」も、ケラー博士との出会いがきっかけで始まりましたが、その前にもインターネットやバイオとの出合い、ピンチの時にたびたび訪れる出会いに助けられてきました。それらは偶然ではありましたが、そういう出会いというのは自分自身のエネルギー・レベルが高い時に訪れるという感覚があります。自分の熱量が高いと、人を引きつけやすくなり、意味のある出会いが増えるということなのかもしれません。自分は常にエネルギーを高めていたいと思いますし、極論ですが中身がなくともテンションが高いだけで「何かやってくれそう」と興味を持ってもらえることすらあり、それで良いと思っています。

――最近では「ChatGPT」との出合いもありますね。

 「ChatGPT」からは、iPhone以上の衝撃を受けました。誰にとっても大逆転のチャンスです。肉体は弱っていくけれど、脳は「ChatGPT」の力を借りて進化していく。数年後にはもう追いつけないところまで行ってしまうのではないかと思いますが、使いこなせるようになっていなくてはなりません。

 新しいテクノロジーとの出合いや時代の変化があった時、それに乗るか乗らないかは個人の選択で、「ChatGPT」を「使わない」という選択もあります。でもその選択肢は、使いこなせるようになってからでも選べます。「ChatGPT」が誕生した時、私の会社では1日7時間のセミナーを4~5日間実施し、社員に「とりあえず使っておくように」と繰り返し伝えました。

――児玉さんの成功の秘訣とは?

 基本的には「失敗には理由があるが、成功に理由はない」と考えています。ただ、インスピレーションを大切に行動するようにはしています。それは、コピー機のセールスマンだった時代に培った感覚かもしれません。営業には分かりやすい成功と失敗があるので、成功体験や失敗体験を重ねることで、どんな時に成功するかという感覚を体得したのだと思います。

 私は、自分の人生に対して貪欲なので、成功しても「この辺でいいや」とは思いません。失敗して落ち込むこともほとんどありません。そんなのもったいないし、落ち込んでいる間にも新しいことを思いつき、行動してしまう性格です。でも、まずは自分が「行動させてもらえる環境」にあることが恵まれていると感謝しています。

――今後はどのような展開を?

 ビジネスの一線で動けるのが、あと10年なのか3 0 年なのかは分かりませんが、歳を重ねて「次の世代に何かを継承したい」と考えるようになりました。人生の先輩として自分のしてきたことを後輩たちに伝えたいというより、どちらかというと自分より一回りも二回りも若い世代の仲間に入れてもらい、同じ目線で何か新しいことをしたいというイメージです。

 現在、化粧品ビジネスである程度の成果を得ていますが、欲張ればまだまだ何かがあるのではないかとワクワクします。これからも「ChatGPT」のような新しいテクノロジーとの出合いや、若い世代との出会いがあるかもしれません。「ハッピーなモーメントを届ける」ことをモットーにしているので、そのツールが化粧品でなくても、誰かに別の形で届けることは続けていきたいです。


洗顔料、保湿ローション、美容液を組み合わせた大人気のセット




SHARE
特集 / インタビューの最新記事
関連記事一覧
Google Adsense