検索
Close this search box.

ブラジルでバナナの灌漑(かんがい)農法に成功!熱帯の農業大国で国内トップの生産者に上り詰めたバナナ王。─Brasnica Frutas Tropicais会長 山田 勇次さん

SHARE
世界各国の日系メディアと協業しインタビューを敢行!
世界で活躍する日本人ビジネスマン
山田勇次さん(右)と妻のユミさん

 ジャナウーバ市を拠点に、ブラジル農業界で躍進を続ける道産子の山田勇次さん。1988年に創業したブラスニカ社は、ブラジルのバナナ・ビジネスで群を抜いてトップに輝き、2023年の売り上げは8億レアル(243億円)、来年度は10億レアル(304億円)に達する見込みだ。演歌が好きで、18歳の時に知り合った妻ユミさんや家族、友人、社員、消費者全ての喜ぶ顔を見るのがうれしいというバナナ王の素顔に迫った。 取材:大浦智子『ブラジル日報』

――ブラジルに渡ったきっかけは?

 両親は音更町の8 町歩の土地で農牧業を営み、子育てを含めて辛い労働を全て母が取り仕切っていました。ところが父は母につらく当たり、それを見て夜、布団をかぶって1人声を殺して泣く日もありました。ある時、ブラジルから一時帰国していた老翁が、「ブラジルは冬がなく、広大な土地でバナナがいくらでも食べられる。学校に行っても行かなくても自由」などと話すのを聞いて「母を楽にさせられる」と思い、私は12 人きょうだいの11番目でしたが、父にブラジルへ行くことを説得しました。当時はブラジルに行ったら二度と帰ってこられないと思われ、母方の祖父は悲しさのあまり駅への見送りにも姿を見せませんでした。

――ブラジルに来て最初は何を?

 父は郷里の土地を売ってレジストロ(ブラジル南東部サンパウロ州海岸地帯)に土地を購入しました。お茶づくりが盛んな土地で、茶摘みをしたり、野菜を植えたりしていましたが、ブラジルに来て2年で父が亡くなりました。5歳上の兄とアボブリーニャ(ズッキーニ)を植え、夜中も懸命に働き、出荷が終わると利益が出て、数年でコンビ(ブラジルで商用車として広く親しまれているフォルクスワーゲンのバン)も買えて独立資金もできました。農薬を吸い込んで肝臓を傷め、食欲もなく歩くのもつらい時期がありましたが、そのことがきっかけで仕事を人に頼むことを覚えました。

 20歳の時、夢だったバナナ栽培を始めるための資金作りと生活のためにサツマイモを植え、それまで販売の経験はありませんでしたが、店に客として訪ねて世間話をしながら商談に入る兄のやり方を真似すると、商売も上手くいくようになりました。当時はバナナの市場の供給量が少なく高い値段で売れ、その売上げを基に野菜も植え、作業員100人を動員して毎日トラック1台を出荷するようになりました。

――マラクジャ栽培でも成功されたそうですね。

 1980年に雑草だらけの広い土地を見つけ、何の計画もなく「植えてみたい」とインスピレーションを得ました。土地の所有者は、戦時中にリトアニアで杉原千畝領事がビザを発行してユダヤ人を助けた話を好きなポーランド人で、無料で土地を貸してくれました。その20ヘクタールの土地は何十年も放置されたカチンゲーラ(有刺低木地帯)で、通常は火をつけて雑草を焼き払いますが、その時は直感的にトラクターをかけただけでマラクジャ(パッションフルーツ)を植えてよく実りました。当時、ブラジルではマラクジャを飲む習慣はなく売れなかったのですが、知人から聞いた2社のジュース会社に電話をすると、フロリダで大霜が降りてマラクジャが不足しているとのことで競って買いに来て、値段が日を追って倍に高騰しました。今思えば、あの土地は長年の栄養がたまっていたので無肥料無農薬でおいしい果実が実り、ジュース会社にも気に入られたのです。4年間のマラクジャ栽培での成功が知れ渡り、周囲も植え始めたので「自分はもうしない」と言いました。

――ジャナウーバで灌漑農法によるバナナ栽培を始めたきっかけは?

ブラスニカ社のバナナ園とトラック

 レジストロの景色は起伏に富んでおり、(遠くまで見渡しにくいため)日本で老翁から聞いた「地平線の見える広々としたブラジル」へのあこがれがいつもありました。また、レジストロは大雨の降る土地で、83年には大水害があり、バナナ栽培を続けるのは心配でした。

 1600キロ離れたレジストロとジャナウーバでは、入道雲を見た時、「醜い」「美しい」と全く正反対の反応を示します。人づてに聞いたジャナウーバへ視察に行くと、同地ではバナナの成長に必要な雨量は自然にはありませんが、既に農業プロジェクトが進められて貯水池などは設置されており、灌漑農法で試験栽培された見事なバナナが実っており、「ここで成功できる」と確信しました。

――現在の事業が拡大することになったきっかけは?

 ブラジルで水をやってバナナを生産・販売するのは私が初めてでした。当時、ジャナウーバはあまり知られておらず周囲にも心配されましたが、水さえ用意すれば逆に霜害も水害もなく、土壌の成分も好条件、流通拠点としても最適でした。84年にバナナ・ナニカを植え、次にバナナ・プラッタを少し植えてみたところ、黒ずんだ染みのないまっ黄色な果実が実り、すぐに高品質のバナナが全伯に知れ渡りました。


 購入した土地の40ヘクタールでバナナ栽培をスタートさせると、それまでの実績を見て、銀行からバナナ栽培に融資したいと声を掛けられました。ブラジルで銀行がバナナ園にお金を貸すのも初めての事でした。8年払いで設備投資のために資金を借り入れ、「ここが自分の終生の住みかとなる」と覚悟を決めました。

 94年にはトラック1台出荷すると、新車1台買えるほどの価格になりました。現在はミナスジェライス州、ゴイアス州、トカンチンス州にある18カ所2500ヘクタールの農場の内、2000ヘクタールでバナナ、5 0 0ヘクタールでパパイヤ、パッションフルーツ、ライムなどを栽培しています。88年には収穫したフルーツは自分で販売したいと思い、Dosanko Frutas Tropicais社を設立して販売店をオープン、今は300台のトラックで流通も行っています。

――ジャナウーバ市長に当選した時のことを教えてください。

 以前から市長選に立候補するように声を掛けられていましたが、断り続けていました。それでも2011年に出馬して、最初の世論調査ではかつて自分が応援していた現職市長の支持率が25%、私はたった2%でした。やると決めたら、妻が率先して選挙運動に参戦してくれて、町中で多くの女性支持者を集めてくれました。また、人口約7万人のジャナウーバに約1000人の従業員がいたため、そのネットワークも選挙戦では有利に働いたと思います。

灌漑農法で栽培されるバナナ園

――苦労や印象深い思い出は?

 私がブラジル行きを説得した父が渡伯2年で亡くなり、自責の念にさいなまれました。18歳年上の兄とも上手くいかず23歳まで悶々とし、胸中を聞いてもらうために母と日本にいた姉のところに行きました。郷里は10年で大きく発展し、父が売った土地の近所の人から、「運が悪い時に出て行ったね。今なら何億で土地が売れたのに」と言われ、父に申し訳なく思い、「親父が損した分を取り返す」とブラジルで生きる目的を決意しました。

――現在力を入れていること、今後の展望は?

 オーガニックのバナナ栽培に力を入れています。肥料にキノコ栽培で使用する木のおがくずを使用するととてもおいしいバナナができます。また、販売店がリオデジャネイロの大手流通卸会社よりも成長することを目指しています。そのためにより高品質な作物を10種類は生産する必要があります。他にも農薬がなくても病気にならない種類のバナナを栽培し、低価格で供給するアイデアもあります。

 社員にはブラスニカ社で働いていることを誇りに思ってもらえる工夫や、各部署で組織内を明るく風通し良くできるような人材の育成についていつも考えています。

――これまでを振り返り、今感じていることは?

 自分は運が良かったと思います。父が亡くなって懸命に働いていた時も、「君は働き者だから」と無料で土地を貸してくれる人がいたり、多くの人に助けられてきました。

 17歳の時、米国のナポレオン・ヒルが書いた『巨富を築く13の条件』を読み、人間は思いでできているということを強く意識しました。96年にはサンパウロ市に盛和塾があると知り、稲盛和夫塾長のカセットテープや本に深く感動しました。全ての仕事をする時は心を高めるのが大事だと思いますし、ブラジルの農業は値段の変動幅は大きく、「経営12カ条」の中にある「燃える闘魂」がなければやっていけません。修行の甲斐あって2004年、京都で開催された第12回全国大会で体験発表する栄誉を与えられ、全国約3500人の盛和塾生の中から最優秀賞まで頂きました。「この土地にバナナを植えても良いか」「この食べ物は食べても良いか」など、私はペンデュラム(振り子)を使用して自分の潜在意識の声も聞く
ようにしています。そして、人生はやるだけのことをやれば伸びていけると信じています。





SHARE
特集 / インタビューの最新記事
関連記事一覧
Google Adsense