ガーデニングの素人らしい失敗を重ねながらも、大切に育ててきた鉢植えのレモンを地植えに切り替える時を迎えた。花や実を楽しめる果樹はうまくいけば長い年月を生きるため、世話をする側としては生き物を育てるような感覚が特に強い。レモンの木が無事に生き長らえるか、楽しみと不安の両方の目線で見守る毎日だ。(文・写真:七井マリ)
逃してしまった植え付けの適期

<C>鉢植えの木からの収穫。木への負担や香りの減少を考慮し、緑色のうちに採る
サウス・コーストの田舎町に移り住んだ時、シドニーの住まいから鉢植えのレモンの木を定植しようと持ってきた。私の腰の高さほどの小さな木だったが、毎年春には可憐な白い花が芳香を放ち、果実は多い時で10個ほど収穫できた。光沢のある緑の葉に触れ、幹に害虫が卵を産めば1つずつ取り除き、声をかけながら水をやり、定期的に別の鉢に植え替える。家を何日か空けると枯れていないか心配で、出先でも思い出すほど可愛がっていた。
鉢植えから地植えにしてうまく定着すれば、根が土中に深く伸びて水分を吸うので頻繁な水やりは不要になり、何より木が狭い鉢に甘んじて縮こまっている必要がなくなる。ただし、植え付けはタイミングを選ぶ。果樹の定植は生育が著しい季節を避ける必要があり、柑橘の場合は冬の直後がベストだ。時期を間違うと根が定着せず、枯死のリスクが高まるといわれている。
田舎町へ転居して1年目、ふと気づけば最初の春が過ぎていた。レモンの世話を怠っていたわけではないが、仕事や家庭のちょっとした忙しさがそれに続いた。次の春こそは地植えに、というイメージを持ちながらも、あっという間に3年が経ってしまった。
こんなはずでは、と思ったのはレモンの木の方かもしれず、花の数が年々減り、枝の伸びも悪くなった。その間、大きい植木鉢に一度植え替えはしたものの、ついに昨秋の収穫は小ぶりな実がたったの2個。葉の色つやも以前のようではなくなった。見るたびに申し訳なさで胸が痛み、次こそ定植の適期を逃がすまいと心に決めた。
マーケットからバルコニーへ

元々はシドニーで暮らしていたころに手に入れた苗木だった。よく行っていた週末の野外マーケットで買い、小さなアパートメントの日当たりの良いバルコニーでハーブや野菜の鉢植えと並べて育て始めた。
買ってきて1カ月ほどで、まだ小さい苗木の葉が半分ほど落ちてしまった時は大いに慌てた。どうやら水をあげ過ぎたらしいと分かってからは、レモンの育て方をしっかり調べて世話をして、木はすぐに花や実を付けるようになった。正しくケアをすれば健やかに育ち、間違えば元気をなくしてこちらに知らせる。生き物を育てることにも似て、そこにはコミュニケーションがあるように感じられなくもない。
初めてのレモン栽培がうれしくて、毎日のように写真で記録していた。淡い緑色の小さな新芽が出たこと、柔らかい若葉に虫食いの跡ができたこと、ボールペンの先端ほどだった小さなつぼみが2センチまで膨らんだこと、最初の花が開いてミツバチが来たこと。小さな変化の1つひとつが愛おしく、鳥や虫を眺めているのと同じように穏やかな気持ちになった。最初の果実を枝から切って収穫した時は、思い入れが強すぎてしばらく食べずに飾っていたほどだ。植木鉢でも育つが、いつかの日か地植えでのびのびと育ててあげたい、と自然に思うようになった。
地植えの前の落葉と開花

田舎に移って激しい乾燥や豪雨などの現実を肌で感じたせいか、もし地植えに切り替えてうまく育たなかったら、という不安も生まれた。そのせいで無意識に植え替えを先延ばしにしていたのかもしれない。
定植予定の春まで数カ月という冬の間に、レモンの木は全ての葉を落として枝だけの姿になってしまった。常緑樹の柑橘は通常、四季を通して青々と葉を茂らせている。おそらく植木鉢の中で根詰まりを起こし、水分や養分をしっかり吸収できなくなって葉を落としたのだろうと見当が付いた。それでも真冬の植え替えはリスクが高そうだ。世話をしながら祈るように見守っているうちに、やがて枝先に新芽の兆しが見えてきた。
春が来て緑色の葉が再生したと思ったら、予想より早くつぼみが付いていた。本当はつぼみより先に植え付けなくてはならず、最善のタイミングをまたも逃してしまったということだ。気落ちしていても自然は待ってくれない。ベストがだめでもベターを、ということで開花後の時期をねらうことにした。
カンガルーやポッサムと共に

植木鉢の中は細かい根がきつく張り巡らされ、取り外すのにかなり力を要した。見ていて息苦しくなるような根の密集ぶりには、かわいそう以外の言葉が見つからず胸が痛んだ。
根を軽く調えてから地面に植えると、レモンの木は細く弱々しいながらも日数を掛けてどうにか根付いたようだった。実を結ぶのは何年か先かもしれないが、まずは広々とした地面に根を張り、元気に枝を伸ばしてくれたらそれで十分だ。
定植後、恐ろしいほどに乾燥した晩春から夏を越え、レモンの木は今も生きている。木が大きくなる前にカンガルーやポッサムに葉を食べ尽くされると弱ってしまうので、ある程度育つまで金網で保護しておくのは田舎ならではかもしれない。蝶の幼虫もカメムシも多く油断はならないが、生態系のバランスを損なわないよう、自然由来の肥料だけを使う有機栽培だ。自然本来のペースで、木自身がそこで育つかどうかを決めるだろう。人間はほんの少し手を貸すだけでいい。
シドニー同様、冬も零下になることがないこの辺りは柑橘の生育に適しているらしく、秋にはあちらこちらの庭を黄色や橙色の実が鮮やかに彩る。野鳥やポッサムも柑橘の実を好むので、森や野に餌が少ない時の助けになる。もちろん自分の口に入る分も意識しているが、植えた木がたくさんの実を付けて生態系の中で役割を持つ日が来たら、それは果実の味わい以上に感慨深い収穫になりそうだ。
著者
七井マリ
オーストラリア在住のエッセイスト。日本での子ども時代の教育体験から海外移住後の田舎暮らしまでを綴ったエッセイ本『高校に行かないと決めた14歳の日から』(文芸社)を2026年2月に上梓