第5回
4年に一度のスポーツの祭典「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会」が日に日に迫る中、同大会への出場、
メダル獲得を目指しオーストラリアを拠点に奮闘を続ける、また来豪したオリンピック、パラ・アスリートをインタビュー。
柔道家
高木海帆(かいはん)さん
受け入れてくれた豪州のために東京で金メダルを
日本代表での長いキャリアを持ちながら、現在、オーストラリア代表として東京五輪を目指し戦いを続ける柔道家・高木海帆さん。高校時代から数々のタイトルを獲得し、日本柔道重量級の大器として期待された高木さんだが、不思議にも五輪への出場はいまだ果たせていない。来年の東京で、五輪を目指すのは3大会目。しかし、その背景には単に「挫折に満ちた」とは言い難いほどの壮絶な競技人生と1人の柔道家としての譲れないプライドがあった。(聞き手=山内亮治)
大器としての期待
――柔道を始めたきっかけについて教えてください。
子どものころ、バスケットボールや水泳などいろいろなスポーツをしましたが、一番仲の良かった友達が柔道をしていたことと、実家の近くにたまたま道場があったことが理由で7歳の時に始めました。
――その後、高校1年次にインターハイの個人戦で優勝するなど早くから頭角を現しました。
本当に当時の成績に関しては、運に恵まれただけだと思っています。
そのころは将来の競技生活を考えるというより、目の前の勝負だけに集中するといった状態で、高校日本一や団体3冠(全国高等学校柔道選手権大会、金鷲旗(きんしゅうき)高校柔道大会、インターハイ)という目標しか見ていませんでした。それらの目標は達成できましたが、自分が五輪やシニアの国際大会で勝てる選手になるとは想像していませんでした。
――それでも周囲の高木さんに対する期待は相当高かったはずです。
そうだったと思いますが、自分としては正直つらかったんです。高校1年生でのインターハイ制覇が山下泰裕さん(ロサンゼルス五輪金メダリスト)以来33年ぶりだったことで余計に注目が集まり、周囲が自分に実力以上の評価をしていると感じていました。自分のパフォーマンスが周囲の期待に追い付いていないという感覚があったため、大学からは自分を見失っていると感じる時間が長く続きました。
――自分を見失うとは具体的にどういった状態でしたか。
日本の柔道家は、国際大会では頂点に立つことを常に宿命付けられます。しかし、自分はそれを異常なことだと感じていました。そうしたプレッシャーを良いものとして歓迎する選手もいますが、自分の場合はそれが性に合わなかったんです。プレッシャーを感じ続けるあまり、楽しかった柔道も次第に楽しくなくなっていきました。
大学生になってからでしょうか、優勝というプレッシャーが掛かる機会が多すぎて、目の前のどんな結果にも心が全く動かなくなりました。また、大学在学中の2010年と11年に世界柔道選手権大会に出場しましたが、そのような本当に頑張らなければいけない場面でも頑張ることができないようになっていました。
柔道は対人競技であり、自分が頑張った分だけ記録として反映される個人競技とは大きく性質が異なります。自分が頑張っても相手も同等かそれ以上に頑張っているわけなので、勝ちか負け、そのどちらかの結果が分かりやすく現れます。振り返って思うことですが、そういう世界にもかかわらず常に一番を求められ続けるのは、相当なストレスだったと思います。
大けがと2度の五輪落選
――本当の気持ちとは裏腹に華やかな活躍をされてきたわけですから、五輪への思いは自然と芽生えたのではないですか。
五輪で勝ちたいとはっきり思ったことはなかったかもしれないですね。自分が五輪に出られるかもしれないという大舞台への意識はぼんやりとありました。ただ、絶対にあの舞台で戦うんだといった強い意識を日本代表の時には持っていなかったと思います。
――12年ロンドン五輪の前年にけがをされ、それがその後の長い低迷につながったと伺っています。
右ひざの前十字靭帯を断裂しました。
精神的には相変わらず苦しい状態のままで、そこに選手生命を左右する大けがです。あまりにも苦しくつらい状況に陥りましたが、それでも「そういう経験をして良かった」と思えるメンタルを身に着けられました。
けがをするまでは、万全な状態で試合に勝つという意識が強かったのですが、前十字靭帯を断裂してしまうと自分にとっての完璧な状態はもうありません。かつての自分は存在せず、技をかけようにもそれまでのようにうまくかかりませんし、けがへの恐怖心が常につきまとって自分のことをどうしようもないと思っていました。ただ、リオ五輪への選考が近付き、やるしかないと腰を据えたことで、20~30%と自分の状態がどんなに低くても、その日のベストを尽くして戦う、練習をするという気持ちの持ち方をできるようになり、体もうまくコントロールできるようになりました。
大けがをして以降、競技をする中でこの経験以上に苦しいと思ったことはないですし、その時の気持ちに自分自身が左右されるということはもうないかもしれないですね。
――14年に講道館杯(※1)で復活の優勝を果たされました。既にリオ五輪への選考が始まっていたと思いますが、絶対に出場権をつかみ取るというような五輪への意識の変化はありましたか。
正直、日本代表で柔道をしている間、意識の変化はありませんでした。ただつらい、もうそのひと言です。
――リオ五輪代表選考の大きな評価基準となる15年の世界選手権には、出場できませんでした。しかも高校・大学の1学年後輩である羽賀龍之介選手との競争の末の代表落選です。翌年のリオ五輪も羽賀選手が100キロ級の代表に選ばれ、高木さんは落選してしまいました(※2)。この一連の出来事は柔道人生における深い傷となったのではないですか。
羽賀選手がその世界選手権でチャンピオンになる姿を見て、「自分がリオ五輪の日本代表に選ばれることはない」と確信しました。日本における五輪の代表選考は実績を重視する傾向にありますから。
それでも、井上康生代表監督(シドニー五輪金メダリスト)や鈴木桂治さん(アテネ五輪金メダリスト)は、最後まで自分に目を掛けてくれました。そのことには本当に感謝していますが、世界選手権落選を機に日本代表として柔道をするという意識は自分の中からなくなってしまいました。
※1:講道館杯全日本柔道体重別選手権大会。体重別柔道日本一を決める大会で、全日本選抜柔道体重別選手権大会、全日本柔道選手権大会と並び日本国内主要タイトルの1つ。
※2:羽賀龍之介選手はリオ五輪では銅メダルを獲得。
オーストラリア代表での再出発
――リオ五輪を前にして高木さんの柔道人生に1つの区切りがついたわけですね。
日本代表にいた間は、ずっとつらい時期が続きました。それでも五輪への夢は諦めきれませんでした。代表の座まで上り詰めたわけなので、「五輪に出られなかった」と後悔を残しまま棺桶に入りたくないと思ったんです。そこで、リオからの4年間を日本代表としてもう一度頑張れば五輪に出られるかと考えましたが、難しいと思いました。
ただそれ以上に、つらい思いをしてまで柔道をしたくないというのが当時の一番の気持ちでした。そして自分の場合は、シドニーで生まれた関係でオーストラリア代表を選択できる権利があることを知っていました。なので、国籍を変え、そこで勝負しようと決断したんです。
しかし、国籍変更のタイミングで、国籍を変更した選手は3年間にわたり国際大会に出場する権利が与えられないという規定が設けられました。それもあり、オーストラリア代表としてデビューしたのは昨年、18年のことです。
この時期もつらかったです。というのも、国際大会に出場できないとどこに目標を設定して良いか分からなくなり、モチベーションを保てなくなるんです。しかし、3年間国際大会に出られないと分かっていても、日本代表として柔道をしたくないと思っていました。オーストラリア代表として柔道ができることを目指し、とにかく我慢しました。
――五輪の出場権については、20年5月20日時点で男女各7階級の世界ランキング上位18人にまずは与えられ、その後は各大陸連盟に出場枠が分配されます。現時点での五輪出場への手応えを教えてください。
既に大陸枠での出場権を持っているので、現時点では五輪出場が内定しています。今後大けがをしない限りは内定の取り消しはないですから、けがには気を付け勝負するところは勝負して調整をしていけたらという気持ちです。
――高木さんの中で今、東京五輪での目標は定まっていますか。
東京五輪では金メダルを狙っています。そこで、日本代表の選手を倒して金メダルを取りたいですね。日本の柔道ファンは、自分のことを敵だと思うかもしれませんが、長くつらい時期を過ごして、3年間も国際大会に出られない時期を耐えてきましたから、相手が日本代表であろうと負けられません。そして何より、自分を受け入れてくれたオーストラリアの人たちのため、自分のために勝ちたいんです。
金メダルを狙うと言っても「何が何でも」というよりは、「俺の柔道人生は絶対にこのままじゃ終わらねえぞ」という気持ちが強いんです。たとえ誰にも注目されていなくても、五輪という舞台で一番輝いてやろうと思っています。クライマックスを自分が全部持っていく、そういう心境です。
高木海帆(たかぎかいはん)
1990年10月にシドニーで生まれ、その後、神奈川県川崎市に移住。7歳で柔道を始め、東海大相模高校1年次にインターハイ個人戦優勝、3年次にはインターハイ個人戦優勝と団体戦3冠を達成。シニア参戦以降も、2度の世界柔道選手権大会出場を果たすなど活躍。2011年に右ひざ前十字靭帯を断裂し長く低迷するも14年に講道館杯優勝。15年には豪州に国籍を変更、18年に同代表デビュー。トルコ人の父と日本人の母を持ち、豪代表名はカイハン・オズチチェク=タカギ。階級は100キロ級。現在は日本中央競馬会(JRA)に所属