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日本とオーストラリアを音楽でつないだ半生
──指揮者・朝比奈千足さんインタビュー

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 世界的な指揮者として名を馳せた朝比奈隆さんを父に持ち、自身も神戸フィルハーモニック、クイーンズランド・フィルハーモニーのオーケストラ指揮者として活躍。日本とオーストラリアを舞台に活躍してきた朝比奈千足さんが、この度、シドニー日系コミュニティー有志で結成された合唱団「シドニーさくら合唱団」のアーティスティック・アドバイザーを務めることになった。シドニー滞在中の朝比奈さんにインタビューを行った。
(インタビュー・写真:馬場一哉)

──指揮者として名を馳せたお父様はもちろん、お母様もピアニストという音楽一家で生まれ育ったと聞いています。

朝比奈:たしかに小さいころから音楽の世界の中で生活をしていましたが、父はまだ売れない音楽家でしたから、生活はとても大変だったことを思い出します。母は家でピアノの先生をし、父はおそらくオーケストラを作るためにいろいろと動いていたのでしょう。いつも外を飛びまわり、夜は仲間とお酒を飲んで帰ってくることも多かったので、私と父は子どものころはほぼ没交渉でした。ただ、やはり「門前の小僧」と言いますか、音楽は子どものころから耳にしていましたので好きになりました。いつしか音楽に詳しい子どもとなり、例えば音楽の授業などで、先生よりも僕の方が音楽に詳しいなどといったシーンもあったことを思い出します。

──朝比奈さんにとって音楽は日常の一部だったわけですね。

朝比奈:僕にとって音楽は普段着のようなもので、特別なものではありませんでした。ピアノは親の方針もあって、小さなころから弾いていましたが、やはり男の子ですからそのうち運動をしたくなって、稽古がわずらわしくなってやめてしまいました。中学生、高校生のころは陸上競技などの運動を楽しみつつ、それでも音楽自体は好きですから、クラリネットの演奏をしたり、大勢でブラスバンドをやったりなど、音楽に触れ続けていました。大学ではオーケストラにも入りましたが、少なくともいわゆるアマチュアの音楽好きでした。

──プロの音楽家を目指すきっかけは何だったのでしょう。

朝比奈:大学在学中、既に丸ノ内にオフィスがある大手企業への就職が決まっていました。ただ、毎日オフィスに通う将来の自分の生活を想像した時に、生まれて初めて音楽で食べていく道もあるのではないかと思い至ったのです。趣味や遊びで続けてきたので、音楽を本格的に学んだことは一度もなかったのですが、その時になって初めて「やってみたい」と思ったんです。そこで早速父親に相談したところ「1日でも早い方が良い。ドイツに行け」と言われ、父と縁のあった西ドイツのブレーメンの学校に通うことになりました。

──大手企業への就職の道を蹴り、音楽の勉強のためにドイツに渡られたわけですね。音楽という共通項はあっても、初めての海外生活、言葉やカルチャーの違いなど苦労された点も多かったと推察します。

朝比奈:最初の1~2年はとにかく泣かされましたね。ドイツ人の気質や習慣など、何の知識もない状態で飛び込みましたから。ただ、音楽を続けていくことが目的だったので必死で頑張りました。5年も経つと言葉もできるようになり違和感もなくなりましたし、自分が日本人だからこそ、ドイツ人とは違うアプローチができることが分かりました。思えば、習慣の違いはむしろあった方がより学ぶことが多くて良いのではないか、と思います。

留学中の苦労について「音楽を続けるために必死だった」と話す朝比奈さん

──なるほど。具体的にはどのようなアプローチでメリットを感じられたのでしょう。

朝比奈:ドイツの音楽シーンにはしっかりとした理屈、メソッドがあるので、当然それらに合わないといけません。ところが、僕はそれらを全く知らないため、彼らにとって当然のことが、良く分からない。そこで「そもそもその決まりはなぜあるのか」など根本的な質問をよくしていました。意図的ではないにせよ、伝統や常識にとらわれていない人、として音楽にアプローチできたのは振り返れば得したなと思います。知識として知っていると、大体理解したなという感じで次に行っていまいますよね。しかし、僕には当然でないことが多く、さまざまなシーンで説明を求めてきました。それは今、僕にとって根本的な知識となっており、自身が教えたりする際にも役立っています。

──バックボーンの違いが、音楽の本質への気付きにつながったというわけですね。5年で学校を卒業し、プロのクラリネット奏者として活躍された後、指揮者へとキャリア転向されました。そのきっかけは何だったのでしょう。

朝比奈:父親が指揮をしている現場を見てきた中で「僕ならこうするな」などと漠然と思っていたのですが、そのうち自分でもやりたくなってきたんです。そこでまた、留学して学ぶことにしました。ただ、今度は結婚していたので妻と一緒に西ベルリンに行きました。

──奥様もピアニストでいらっしゃいますね。

朝比奈:はい。妻はピアニストとしてイギリスに留学予定だったのですが、私は、当時の東ベルリンの国立オペラ劇場の音楽監督だったオットマール・スイットナー先生の指揮者助手として師事していたので、急遽、学び先を西ベルリンに変更することになりました。そして僕は西ベルリン住みながら東ベルリンに毎日通いました。2年間貧乏生活をすることになりましたが、思えば2人の青春の時間でしたね。

左が奥様の朝比奈加代さん

神戸、ブリスベン、シドニー、3都市を股に掛け

──その2年間の修業を経て、日本で指揮者デビューを果たされたのですね。その後、オーストラリアとの関わりはどのように始まったのですか。

朝比奈:その当時、海外移住が流行っていたこともあって、妻の両親がシドニーに移住したんです。それまで僕は南半球にこんな大きな街があることも知らず、知っていたこととすればオペラ・ハウスぐらいでした。そして当時、僕は神戸フィルハーモニックのオーケストラの指揮者をしていたのですが、たまたま神戸市とブリスベンが姉妹都市だったこともあって、何となくオーストラリアとの縁を感じたのです。そこで「視察」という名目でブリスベンに行ってみようと思い、神戸市の市長さんに話をしてみたところ、神戸市長からブリスベン市長への手紙を預かることになりました。ブリスベンの音楽院、大学、放送局などを視察させて頂き、そこから縁が始まり、妻はブリスベンのクイーンズランド音楽院の講師に、僕はクイーンズランド・フィルハーモニー(当時)の専属指揮者となりました。彼らがなぜ僕を指揮者にしたかというと、伝手をたどって日本の公演ツアーを目論んでいたからです。その後、実際日本で6カ所を回る、全国ツアーを行ったり、神戸市との交流イベントなども行いました。

──神戸とブリスベン、両都市をベースに活動され続けて来たわけですが、比重としてはどちらをメインにやられていたのですか。

朝比奈:完全に半々です。妻の両親がいるシドニーも含めると拠点が3つあったのでなかなかややこしかったですね。その3都市をぐるぐる回る生活を30年近く続けましたが、今年、ついにブリスベンからは撤退することにしました。

──なるほど。ブリスベンを引き払ったタイミングで、シドニー・さくら合唱団の顧問を引き受けられたと。

朝比奈:今年5月に知り合いを通じてシドニーさくら合唱団の練習を見させて頂く機会を頂いたのです。その時に皆さんにごあいさつ差し上げたところ、アドバイザーという形で関わってもらえないかとオファーを頂いたのです。私は合唱の指導者ではありませんので、とお伝えしましたが、芸術顧問のような立場(アーティスティック・アドバイザー)はどうですかと言われ、名誉職ならばということで引き受けることにしたのです。シドニーの自宅はモスマンなのですが、合唱団の練習はニュートラルベイ。近いですし、毎回送迎頂いているので、サボれません(笑)。練習が終わったら、1杯お酒をごちそうになって帰るというのがご褒美ですね。

──今後、さくら合唱団の活動に関してお考えをお聞かせください。

朝比奈:私はあくまで顧問ですので、今後の方針などは皆様が決めることですが、もう少しメンバーが増えたら良いなということと、もう少しクラシックな曲も取り上げると私が指導できる領域が増えてくるかなと思っています。もちろん今、合唱団の皆様が歌われているオーストラリアの歌、アニメ・ソングなども楽しくて良いと思いますが、クラシックな曲を勉強されると更に合唱の醍醐味、ハーモニーの美しさを楽しめるようになるかもしれません。

合唱団にアドバイスを行っている朝比奈さん

──最後に、本記事を読まれている多くのオーストラリアにゆかりのある読者の皆様にひと言お願いします。

朝比奈:オーストラリアはこれからの時代、世界の中でもより重要な位置を占め、日本人にとってより価値のある国になるのではないかなと思っています。子どもの教育環境がすばらしいと思いますし、日本人が生活するにもとても良い国なのですが、実は一方で多くの日本人に知られていない国だとも思います。未だに世界の田舎と思われている方もいると思います。もし、そういった方がおられましたらぜひ一度来てみるようお声を掛けてみて頂けるとうれしいです。

──本日はありがとうございました。

(8月25日、ニュートラルベイで)

朝比奈千足氏が芸術顧問を務めるシドニーさくら合唱団に興味のある方は以下まで問い合わせを。

Web: シドニーさくら合唱団

Email: sakura.choir@gmail.com

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