第4回
4年に一度のスポーツの祭典「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会」が日に日に迫る中、同大会への出場、
メダル獲得を目指しオーストラリアを拠点に奮闘を続ける、また来豪したオリンピック、パラ・アスリートをインタビュー。
パラ競泳選手
中村智太郎さん
東京では自己ベストを更新し表彰台の一番上に立つ
生まれた時から両腕のない「先天性両上肢(じょうし)欠損」の障がいを持つスイマー、中村智太郎さん。4歳で水泳を始めるとパラリンピックには2004年のアテネから4大会連続出場、初の大舞台で銅、12年のロンドンで銀メダリストに輝くなどこれまで圧倒的な成績を残してきた。来たる東京パラリンピックで悲願の金メダルを目指す中村さんは、1月下旬から約2週間、シドニーで強化合宿を実施。合宿中の中村さんに、過去のパラリンピックでの戦い、そして東京に向けた思いなどを伺った。(聞き手=山内亮治)
自立に向けて始まった水泳人生
――先天性両上肢欠損の障がいを持って生まれた中村さんが、水泳を始めたきっかけについて教えてください。
水泳を始めたのは、両腕のない状態で生まれた自分が海や川でおぼれないようにと両親の勧めでスイミング・スクールに行き始めたことがきっかけでした。4歳からスイミング・スクールに通いましたが、気付いた時には泳ぐことができていました。自分のような障がいを持った子どもに水泳を教えることは、スクールのコーチにとってきっと初めての経験で難しいことだったでしょうが、いろいろな人の支えがあり、小学校4年生のころには四泳法(自由形・平泳ぎ・バタフライ・背泳ぎ)全てを泳ぐことができました。
――健常者もそうだと思いますが、水泳を始めた当初は恐怖心との戦いだったと想像してしまいます。
自分自身、いろいろなことにチャレンジするのが好きでしたから水泳は楽しいと感じ、競技を続けることができました。また、両親もスポーツに限らず生活全般を含め「自分でできることは何でもさせる」という考えの下で私を育ててくれました。そうした教育方針も手伝って、水泳を続けてこられたのだと思います。
――何にでも積極的に挑戦しながら自立した生活を送られたわけですが、ご自身の障がいについてはどのように認識されていましたか。
生まれつき両腕がないまま34年生きてきたわけですが、腕がないことが障がいだという認識が自分の中ではありません。その状態が自分にとって普通であり、それを障がいとは思っていないんです。
パラリンピックでの戦い
――中村さんは2004年、当時20歳でアテネ・パラリンピックの銅メダリストになりました。パラリンピックの舞台を意識し始めたのはいつからでしたか。
パラリンピックを意識し始めたタイミングは、2000年、高校2年生の時までさかのぼります。
当時、初めて日本代表に選ばれたのですが、代表に自分と同じように腕のない障がいを持ち、種目も同じ平泳ぎ、障がいクラスも同じという年齢が4つほど離れた先輩がいました。彼がシドニー・パラリンピックに出場したんです。メダルは獲得できませんでしたが、彼を見ているうちに「自分もパラリンピックに出られるのではないか」と思ったことがきっかけで、パラリンピックを目指し始めました。
――パラリンピックを目指してわずか4年で銅メダルを獲得した時の気持ちはどのようなものでしたか。
初めて出場したパラリンピックでメダルを獲得できたことは自分自身、驚きでした。ただ、ゴールした時は、練習の成果をもっと出せた、タイムをもう少し伸ばせたという思いが胸に湧いてきました。そのため、表彰台に上るまでメダルを獲ったという実感がありませんでした。表彰台に立ってメダルをかけられた時にやっと自分がメダリストになったんだと実感したくらいです。順位以上にタイムへの意識が強くありました。
アスリートである以上、当然メダル獲得を目指しましたし、もっと良い色のメダルが欲しかったのが正直な気持ちです。しかし、アテネはそれよりも自分自身の記録との勝負と位置付けて臨んだ大会だったように思います。
――パラリンピックではその後、北京で5位、ロンドンでは銀メダルを獲得。金メダルが期待されたリオでは7位と自己ワーストの成績になってしまいましたが、原因は何だったのでしょうか。
予選では自己ベストに近いタイムで泳ぐことができましたが、決勝ではそこから2秒近くタイムを落としてしまいました。それがメダルに手が届かなかった一番の原因です。リオの決勝では、それまで出場したパラリンピックで一番「怖さ」を感じました。
リオでは、予選で良いタイムを出せたので決勝も同じくらいのタイムで泳げるはずだと思っていました。しかし決勝前、プールに向かうよう待機所で声を掛けられた時から「本当に自分の力を発揮できるのか」と不安になってしまったんです。レースにはいつもプラス思考で臨むことができるのですが、その時はなぜかマイナス思考になってしまい、一度マイナスに考えるとその気持ちの方が自分の中で勝ってしまいました。リオは、自分の心に負けてしまった今までで一番悔しい大会です。
表彰台の頂点と東京で目指すもの
――東京パラリンピックに向けた現在の状況を教えてください。中村さんは大会本番を36歳で迎えますが、ベテランと言える今、年齢との戦いがあるのではないですか。
20代に比べ、30代になってからは疲労の蓄積の仕方が変わってきたように思います。なので、今一番大切にしていることは体のケアです。良い体のケアをしながらけがの予防だけでなく疲労もためないようにしつつ、しっかりとトレーニングを積みながら結果を残すことが、現在最も重点を置いていることです。
――トレーニングについてはどうですか。
こちらも先ほど言った疲労の蓄積の問題がありますから、より考えながら練習をすることが求められるようになってきています。若いころはただがむしゃらに練習を多く積めば良かったのですが、現在は自分の泳ぎを分析し問題を論理的に考え、水中での抵抗がより少ない効率的な泳ぎを追求しているところです。自分の泳ぎは、1回のキックで長く進めるのが特徴です。その効率的なストロークでスピードとスタミナをキープしながらレースの前半を折り返し、体力を温存した状態で後半最後に勝負をかけるという泳ぎをコーチと取り組んでいます。
また、体幹と柔軟性の強化も重点的に行っています。特に柔軟性については、今よりも更に体をしなやかに使えるようにすることで、水中での抵抗がより少ないフォームを手に入れようという狙いがあります。
今はまだ自分にとっての一番良い泳ぎを試行錯誤しながら探している段階ですが、東京パラリンピックに向けて理想の泳ぎをなるべく早く確立させて、今年のレースに臨むことができればと考えています。
――東京パラリンピックの選考方法や派遣標準記録は決まっていますか。
選考方法はまだ確定していませんが、個人としては今年の世界パラ水泳選手権大会(※以下、世界選手権)での優勝が第一の目標になりますし、それが代表内定の基準になってくると思います。また、パラリンピック当該年では、例年3月に行われるパラ水泳春季記録会が代表の選考レースになります。
派遣標準記録についても、レベルの高いタイムの設定が予想されます。
――今年の世界選手権で代表の座を確実なものにしたい気持ちですか。
代表内定の状況にかかわらず、全てのレースにベストを尽くすつもりです。大会ごとに目標を定めながら調整を進め、パラリンピック本番までに自分の状態を仕上げていきたいと思っています。
――最後に東京パラリンピックに向けたお気持ちを聞かせてください。
東京では金メダルを獲得するだけでなく、自己ベストの更新も目指したいです。100メートル平泳ぎで自己ベストを更新し、表彰台の一番上に立つことが東京での目標です。
また競技面以外では、パラリンピック、そしてパラ・スポーツに関する認知を向上させたいという思いがあります。東京へのパラリンピック招致が決まって以降、日本国内でのパラリンピックへの注目度が高まっています。そこで自分が良いパフォーマンスを披露できれば多くの人がパラ・スポーツにもっと興味を持ってくれる、そこに貢献できるのではないかと思っています。パラリンピック自体が日本ではまだメジャーな存在に成り切れていないと感じています。そういう意味でも、東京大会を機に障がい者スポーツに対する世間の認識を高められればと願っています。
自分自身、健常者・障がい者という区別が好きではありません。皆が平等に、誰もがスポーツを楽しめる世の中になっていく、そのきっかけになるようなレースを東京で披露するという気持ちでいます。
中村智太郎(なかむらともたろう)
1984年7月16日生まれ、兵庫県出身。和歌山県在住。生まれながらにして両腕のない「先天性両上肢欠損」の障がいを負うも、4歳で水泳を始めると小学校4年生までに4泳法を習得。シドニー・パラリンピックに出場した同じ障がいクラスの先輩スイマーに刺激され、パラリンピックを目指し2004年のアテネから16年のリオまで4大会連続出場。アテネで銅、12年のロンドンで銀メダル獲得。専門種目は100メートル平泳ぎ。日阪製作所・パルポート彩の台所属