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ああ、麗しのオーストラリア暮らし──1977年生まれの憂鬱、光明(後編)

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40周年記念・特別コラム
興味があるもの何でもリポート!
BBKの突撃・編集長コラム 不定期連載 第25回

ああ、麗しのオーストラリア暮らし
──1977年生まれの憂鬱、光明(後編)

1977年10月。日豪プレスと同じ年、同じ月に生まれ、日豪プレス40周年と同時に40歳を迎えたというちょっとした縁から、自身の40年と共にオーストラリア定住までのストーリーを書き綴ってきた今回のコラム。ざっと前回をおさらいし、その続きを書いていきたい。

大学時代にオーストラリア大陸をラウンドした経験から「いつかオーストラリアに戻りたい」という漠然とした思いを胸に社会人生活を送る中、12年の歳月が流れ、僕は32歳になっていた。

かつて、オーストラリア国内のバックパッカーズ・ホステルで出会った数多くのワーキング・ホリデー・メーカーたち。当時20歳、そしてたった1カ月の滞在だった僕にとって日本を離れ長期滞在をする人生の先輩たちの姿はとても輝いていて、毎晩ビールを飲みながらその話に耳を傾けるのが最高にエキサイティングだった。

いつか自分もワーキング・ホリデーでオーストラリアに……。そうした思いを胸に、しかし、その思いはかなえられることなく僕は32歳を迎えた。積み重ねてきたキャリアを途切れさせる勇気を持つことができなかったからだ。だが、その時勤めていた会社がつぶれたことが転機となり、オーストラリア移住を具体的に考えるようになった(ここまで前回のおさらい)。

「オーストラリアに戻りたい」という気持ちは年々強まり、その頃には「移住したい」という気持ちに変わっていた。一定段階までキャリアと経験を積み重ねてきたことから、その先のステップ・アップとしてはプレイヤーとしての比重よりもマネジメント側に比重を移す必要があると考えているタイミングでもあった。逆を言えば、プレイヤーとしては円熟の域に達し、「日本でできることはある程度やり尽くした」というような気持ちだった。

だが、移住の夢を話して聞かせた友人たちの一部には「夢物語」と笑われた。「仕事はどうする?」「英語は話せるのか?」「帰りたくなったからって戻れるほど日本社会は甘くないぞ」。そんな言葉を山ほど浴びたが、ありがたいことに両親、そして何より付き合っていた彼女(今の妻)は僕の考えに賛同してくれた。

具体的に移住を考えるに当たり、僕が考えたプランはこうだった。英語力、就業している職業など、永住権獲得に必要なための条件をそろえビザを取得。その後晴れて移住(今考えると甘すぎる考えだ……)。

まず、職業リストに載っている職業に就いている証明が必要なので、僕は「ロング・バケーション(※前回参照)」を切り上げ、就職をすることにした。当時、「ジャーナリズム」が職業リストに載っていたため、当然その線から攻めることにした。

就職する会社の条件は以下の3つに絞った。(1)マスコミ系(ビザの条件上必要)、(2)ドア・トゥ・ドア30分程度で通える距離(時間節約)、(3)できるだけ高い給料(貯蓄を増やす)。それだけを条件にあとは何も考えず就活を行い、開始から2週間後に再就職を果たした。

入った会社は広告代理店で、僕は同社の編集部門の立ち上げ要員として採用された。期待されていたのだろう。無理な給与の条件提示に関しても応じて頂いた。ビザの職業証明のためという目的はもちろんあったが、僕は目的完遂までの間、限られた時間であっても、同社のためにできる限り力を尽くそうと考え頑張って働いた。

編集長という立場ではあったが部員は自分1人。都内の出版社を訪問しながら企画を売り続ける日々を経て、結果的に宝島社や徳間書店など複数出版社からオファーを頂いた。1人編集部として社内の誰とも業務をシェアできないのは孤独だったが、金融系、不動産系、医療系などそれまで携わることのなかった媒体制作は良い経験となった。

だが、同社で働き始めて1年数カ月ほど経った頃、永住権の職業リストの変更というニュースが僕の耳に飛び込んできた。新たなリストから「ジャーナリズム」が消えてしまったのである。

日豪プレスとの出合い

「ジャーナリズム」がリストから消えてしまった時点で、日本にいながらビザを取ることは不可能となった(そもそも今思えば可能だったのかどうか定かではない)。そうなると選べる手段は現地で就業しながらビジネス・ビザを出してもらう以外にない。その時に妻が「シドニーにこんな会社があるよ」と教えてくれたのが日豪プレスだった。早速僕は「ビザのサポートを前提に雇って頂けないか」と打診をした。すると当然ながらこのような内容の返事が返って来た。

「シドニーに来られて、働いてもらわないことには何とも言えない。ビジネス・ビザを出すには極めて高いスキルが求められる上、ビザを出すことは会社にとっても負担が大きいためあまり可能性はないと思った方が良い」

僕はこれをこう解釈した。

「高いスキルがあり、かつ会社が負担を負ってでもこの人を残したいと思わせることができればビザは出る」

2010年10月、ビジネス・ビザの取得を前提に具体的な移住計画を立てた。その移住計画には彼女との結婚も前提に含まれていた。慣れぬ土地での生活でお互いを縛るものがない状態でけんか別れなどしたら大変だ。最初は難航するであろう2人の新生活を支えるためにも「保障」が欲しかった。そしてプロポーズ、両家顔合わせ、結婚式、また並行して妻の退職、自身の退職、そして移住までのスケジュールを僕はエクセルにまとめ、プロポーズ後に妻に手渡した。律儀にエクセルにまとめたことを笑われながらも「一緒に頑張ろう」と言ってもらうことができた(妻へ:本当にありがとう)。

2011年11月、結婚式のスケジュールがずれ込んだこともあり、計画より4カ月ほど遅れたが遂にオーストラリアの地へと足を踏み入れた。

移住までのプランをまとめたエクセル(実物のため、個人情報の部分を黒塗りしています)
移住までのプランをまとめたエクセル(実物のため、個人情報の部分を黒塗りしています)

ビジネス・ビザ、取得まで

働くために僕らが手にしたのは学生ビザ。夫婦そろって会社を退職し、異国の地で学生を始める。今考えてもずいぶん無謀なことをしたと思うが、それだけに絶対に失敗はできないと考えていた。日豪プレスが駄目でも、永住権を取るまでは日本に逃げ帰ることはしまいとそれだけは決めていた。

「社内で相談役とも検討いたしました結果、馬場様を編集部のパートタイム・ポジションで採用させて頂きたく、ご連絡を申し上げます」

これは、2012年2月、日豪プレスに採用が決まった時に当時のGMから送られて来たメールの一部だ。今でも捨てずに取ってある。学生ビザへの切り替えに難航した関係で僕らは3カ月ほど全く働くことができなかった。この3カ月のつらさは筆舌に尽くしがたかった。「もう日本に帰りたい」という妻と、「絶対に帰らない」という僕の間には毎日のように衝突があった。パートタイムとはいえ、仕事が決まった時のうれしさを僕は今でもよく覚えている。

当時、僕はSNSに、与えられたデスクの写真と共にこうポストした。一部引用しよう(原文表記ママ)。

「立ちはだかる現実の壁は当然高い。住居の問題、言葉の問題、お金の問題、ビザの問題。少しずつ見えてはきているもののなかなかクリアにはならない。(中略)飲みに行きたくなっても誘える相手は少ない。僕はときたま一人で近場の海にサーフィンに行き、ときたま日本の漫画を読みに日系企業が運営する漫喫に行く。(中略)こちらの生活に何を望んでいたのかと考えこんだこともある。(中略)つらくないか? と問われれば、ちょっと大変かもと応えている。遊んでばかりのように見えるぞ。といわれれば、いや、こう見えて意外に大変なんですよと応えている。でも、会社の帰り道、家の近くでカモメの群れが気持ちよく水浴びしている風景や野生のポッサムに出会ったりすると、身近に自然があることに感動する。休みの日には家のバルコニーでビールを飲みながら、大きく広く青い空を眺めながらただ、それに感動したりする。『近場のビーチでサーフィンをしていたらイルカが現れた』と上司が言う。(中略)なんて素敵なんだと思う。(中略)さて、写真は僕が今働いている会社のデスク。机の上にあるのはできたてほやほやの最新号。こちらにきて最初に携わった発行物なので感慨もひとしおだ。チャンスがある方はぜひお手に取っていただけるとうれしいです」

日豪プレス入社時の僕の机(2012年2月)
日豪プレス入社時の僕の机(2012年2月)

日豪プレスでの仕事が始まってからもやはり妻とのけんかは絶えなかった。

「1年後、絶対に笑っていられるように頑張るから、今は僕を信じて我慢してくれ」

僕は妻にそう言い聞かせ、そして同時に自分にもそう言い聞かせていた。ビザは無理だと言われながらも、がむしゃらに取材に行き、がむしゃらに記事を書き、とにかく自分がいれば会社は上向くと認めてもらいたい一心で仕事にまい進した。そしてある時、ふいにそれまで一度も会ったことのない発行人S氏と会食をすることになったのだ。初めて会うS氏は声が大きく怖い人だった。

「君、本当にうちでずっと頑張る気があるの?」

「はい。この会社に貢献し、延ばしていけるよう全力で頑張りたいと思っています」

「よし、分かった。特別にビザを出してあげる。重い責任を負うことになるのはもちろん分かっているよね」

迷いなど微塵もなかった。2013年2月。僕は457ビザを取得。それからわずか10カ月後、当時のGMが退職し、突如僕がそのポジションに就くことになった。

平社員からいきなりの昇格。責任のあまりの大きさに戸惑い不安になったが、S氏に「君なら大丈夫だ」と言われ、それを信じることにした。創刊から36年、たくさんの人を見てきたS氏が言うのであれば僕はそれを信じる。

しかし、それから半年後、そのS氏も突然のリタイア。現社主・発行人、アイク池口が新たに僕の上司となった。11年の来豪以来、激動の6年間を過ごしてきたが、思えばほとんど一瞬の出来事のようだった気もしている。そしてつい2カ月ほど前、17年9月、僕は永住権を取得した。

今年日豪プレスは40周年を迎えた。そして同時に僕も40歳になった。「四十にして惑わず」とはよく言ったもので、僕はやっと自分の足でしっかりと大地に立つことができるようになった気がしている。

以上が僕のストーリーだ。誰かに役に立つコラムになったかどうかはよく分からないし、まだまだ書きたいことはたくさんあるが、ここらへんでやめておく。第2のスタート地点に立ったばかりの僕にとってできることは、これからも日系コミュニティーの活性化、そして日豪両国の関係構築に向けてただ頑張ることだけだ。

ビザの法律も変わり永住権を取ることはより難しくなった。だが、法律はまた変わる。落胆することはない(少なくとも僕ならしない)。運もタイミングも全て自分次第。物事は信じる通りに変わるものだ。僕が言えることはただ1つ。

「信じて頑張れ。時は来る」


<プロフィル>BBK
2011年来豪、14年1月から日豪プレス編集長。スキー、サーフィン、牡蠣、筋子を愛し、常にネタ探しに奔走する根っからの編集記者。齢40に突入♂。読書、散歩、晩酌好きのじじい気質。

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