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異郷に生きて幾星霜(いくせいそう)/エドワーズ(江波)美都子

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第9回

タカ植松 一豪一会

異郷に生きて幾星霜(いくせいそう)

エドワーズ(江波)美都子

 日系コミュニティーのさまざまな人間模様を切り取ってきた当連載。今回は、御年89歳という最高齢のインタビュイーに登場を願った。1950年代、白豪主義の真っ只中、戦争花嫁以外では、ほぼ初めてオーストラリア人に嫁いだごくごく限られた日本人として63年を異郷で生き抜いてきた、今年8月に卒寿を迎える日本人女性の物語に、今を生きる日系コミュニティーの人びとは一体何を読み、どのような気付きを得るのだろうか。

(取材=2月15日、4月5日、取材・構成・写真:タカ植松、文中敬称略)

PROFILE

2人の思い出の写真を愛おしく観るエナミ。「そう言えば、この時はね……」と昔の記憶が正確に蘇る

エドワーズ(えなみ)みつこ昭和7年、水戸生まれ。日本統治下の朝鮮で育ち、終戦で引き揚げ。26歳で渡豪。結婚後、現在に至るまで63年在豪。戦争花嫁以外では数少ない白豪主義時代を経験した世代。ゴールドコースト在住。冒頭の写真の肖像画は、慰問で訪れた刑務所の服役囚が獄中で手元の自身の写真を模写して書いた思い出の一品

PROFILE

タカ植松(植松久隆)
ライター。幸い、当連載の反響が良い。他州からも取材対象の紹介の労を取りたいと申し出があったライター、日豪プレス特約記者。「人の数だけドラマがあるとは良く言ったものだ。既に登場を願った人びと以外にも、まだまだいろいろなドラマを秘めた人がいる。連載後半戦も読み応えのあるものをお届けしたい」

エナミと呼ばれて63年

 取材当日、目的地に着き、ゆっくりと車をドライブウェイに滑り込ませると、待ち構えていたように扉が開き、小柄な老女が出迎えてくれた。エドワーズ(江波)美都子(89)、周りには「エナミ」と呼ばれる今回の主役だ。

「もともとは『江波美子』という私の芸名から来ているの。最初にこの国に来た仲間にもう1人『ヨシコ』がいて、私の方が背が高いから『ビッグ・ヨシコ』なんて呼ばれて、もう、失礼って怒っていたら、いつしか『エナミ』って呼ばれるようになって、それからずっとこの国で私はエナミ(笑)」

 出迎えてくれた姿は、この8月に卒寿を迎えるようには見えず矍かくしゃく鑠としている。電話口で声から想像していた以上に、全く年齢を感じさせない杖もつかない元気な姿には、正直、驚かされた。

NDTの8期生

 唐突だが、「NDT」をご存知だろうか。昭和30年代に人気を博し、今の有楽町マリオンの場所にあった日本最大級の劇場「日劇」こと「日本劇場」を舞台に活躍していたのが、ラインダンスで有名な「日劇ダンシングチーム(NDT)」だ。

「私はNDTの8期生。3000人からまずは50人が選ばれ、デビュー初日の出来で30人まで絞られるの。裕ちゃん(故・石原裕次郎)の奥さんの北原三枝(石原まき子)さんが3期上にいたわね」

 競争率100倍を勝ち抜き、芸能界の華やかな世界に身を置いた若かりしころ、今は亡き、越路吹雪、ペギー葉山、李香蘭、宝田明といった綺羅星のようなスターと同じ舞台を踏んだ。どうりで、実年齢の割には若々しさと華やかさがあるのもうなずける。そういった華やかな世界での経験から自然と華やぎは醸し出されるのだ。

 昔話しをするエナミが、懐かしそうにめくるアルバムのモノクロ写真の中の姿も見目麗しい。漆黒の髪に透き通るような肌の色、まさに西洋人が憧れと共に語る東洋人女性の美そのもの。多くの男性が彼女の美しさに魅了されたのは想像に難くないが、後に人生を共に歩むことになるオーストラリア人喜劇役者もその1人だ。

 そんな彼とのなれ初めや、華やかな芸能界にいた妙齢の女性がなぜに豪州の地へとたどり着いたのか。詳らかにするには、まず、その生い立ちを振り返ろう。

1959(昭和34)年、シドニーに降り立ったエナミと7人の仲間(本人は右から3人目)

「祖国」への引き揚げ

 昭和7年、後の「エナミ」こと江副美都子は、5姉妹の4番目として父親の当時の仕事先である茨城県の水戸市に生を受けた。生地に因み「美都子」と名付けられたが、さすがに読みはそのままでは可哀想と、「ミツコ」と改められた。やがて、片倉生命保険(後の日産生命保険)に務める父親が、社命を背負い日本統治下の朝鮮・京城(現・ソウル)に赴任。家族で、終戦の年まで京城の洋館で過ごし、戦時下といえども何不自由なく育った。

 しかし、そんな生活も終戦で一変する。残務処理で朝鮮に残る父に母と幼い妹が付き従い、12歳の美都子と2人の姉は、年頃の三姉妹だけでの着の身着のままでの引き揚げを強いられた。筆舌に尽くし難いような苦労の末、釜山から引揚船で舞鶴港にたどり着き、物心付いて初めて祖国の土を踏んだが、あまりの極限状態に無事に帰国した感慨よりも、港でもらった大きなおにぎりくらいしか記憶がないという。

 命からがら引き揚げた3姉妹が、ようやく荷物を解いたのが、父方の実家がある佐賀だった。3カ月後、両親と幼い妹がやっとの思いで帰国。更にひと月後、満州に嫁いでいた長姉が夫と幼子2人と連れ立ち、あの名作「大地の子」さながらの過酷の経験をしながら引き揚げてきた。幸運にも家族が1人も欠けなかったのは、数多くの悲劇的なエピソードが伝わる大陸からの引き揚げでは稀有な例かもしれない。

 程なく父が勤め先の保険会社に戻れたことで、家族の生活は徐々に平穏を取り戻していった。美都子もまた、戦後の厳しい時世にもまれながらも、踊ることが大好きな朗らかな少女に育った。いつしか、少女の興味は華やかなエンターテイメントの世界へと傾いていく。

結構、いや、とても楽しい人生を送れているわよ

「非常に社交的で人懐っこい母は全面的にサポートして、お堅い職業の父も『高校だけは必ず出ろ』と言うだけで、4女の私のキャリアにとやかく口出しはしなかったわね」

 かくして美都子は、高校卒業後に18歳で日劇の門をくぐる。ほとんどが中卒の同期生に比べ少しお姉さんの新人ダンサー「江波美子」の誕生だ。

開かれた海外への扉

 NDT入団後、キャリアを順調に重ね、団内での立場も確立していた彼女に、大きな転機となる話が飛び込んできたのは入団から8年が過ぎようとしているころだった。聞けば、ハンガリー人興行主がオーストラリア各地を回る興行で踊る日本人ダンサーを探しているという。

「21歳の時、越路吹雪さんとの日劇の豪州公演に家庭の事情で行けなくて悔しい思いをしていたから、今度こそはと思って、迷わずにオーディションを受けたの。NDTからは私と同期の北真由美だけ。あとは、銀座にあったキャバレー美松のダンサー6人を加えた総勢8人がオーストラリアに向かったのよ」

 トントン拍子に話は進み、まだ見ぬ南太平洋の果てに旅立つことになった。18歳でデビューしたエナミは、26歳になっていた。

 かくして、日本人ダンサー8人を含む世界各地のパフォーマーが集った「オリエンタル・キャバルケード(行列、パレードの意)」一座は、59年8月からメルボルンを皮切りに15カ月に及ぶ巡業公演に出た。全豪各地行く先々で大好評を集めた一行の中でも、かつての敵国からやって来たエキゾチックなダンサーたちは、白豪主義の真っ只中でありながらも喝采を浴び続けた。エナミ自身も「15カ月の巡業の間に差別的な経験もほとんどなく、楽しい思い出ばかりだったわよ」と、60年以上前の未だに鮮明な思い出を語るその声は、陽気に弾むのだった。

Mr.and Mrs Edwards

 そんな一座の中心格だったのが、ショーの司会を任されていた長躯の白人紳士。弁が立ち、ウィットに富む、紳士的なその男こそ、後にエナミの生涯の伴侶となるエディ・エドワーズ。24歳離れた今は亡き最愛の夫の思い出を、エナミは慈しむように語り、時には両の瞳をそっと濡らした。

「とにかく優しいの。後から考えると私が狙いだったと分かったけども、いつも日本人ダンサー全員を食事に連れ出して、本当に皆に良くしてくれたの。自分の立場上、1人と親しくなり過ぎてえこひいきみたいになるのは良くないと思ったみたいで、本当にジェントルマンだったわね」

 QLD州北部ボーエンに公演で滞在した折、いつもなら皆そろっての外出なはずが、気付けば2人きりでの海辺の散歩。予感めいたものがなかったわけではないが、エディの「結婚してくれないか」の直球勝負のプロポーズに即答はできなかった。

 その日以降、エディは諦めずに毎日のように求愛を続け、その真摯な姿勢にやがてエナミの迷いも消えた。エナミが「Yes」と答えた時には、ボーエンの夜から実に2カ月が過ぎていた。

 この結婚だが、歓迎ばかりではなかった。「外国人、しかも24歳も年上なので、明治生まれの父は大反対。父には、結婚したら勘当するって言われてたの」

 それでも2人は公演旅行の中休みに、シドニーで永遠の愛を誓い合った。タスマニアへのハネムーンから戻ると、公演の宿泊先には「エドワーズ夫妻」の居室が用意されるようになっていた。

エディを襲った大事故

 長い公演旅行を無事に終えた2人は、QLD州ゴールドコーストを新たな暮らしの拠点に定めた。ほどなく、エディのコメディアンとしてのキャリアが最盛期を迎える。

 盟友ジョージ・ウォレスJrと共にブリスベンのテレビ局BTQ7「シアター・ロワイヤル」という生中継のコメディー・ショーに出演。毎週金曜の午後7時半、夕食を終えたQLD州のほとんどの家で家族そろって見られた超人気番組で人気を博したエディは、誰もが知る QLD州のテレビ黎明期のスターとなった。そんな超人気番組の脚本・演出、そして主演をマルチでこなすエディを影で支え続けたのがエナミだった。

 しかし、好事魔多し。2人を悲劇が襲う。金曜夜の生放送を終えて帰宅しようとマウント・クーサのスタジオからの道を下っていたエディの車が、見通しの悪い山道で中央線をはみ出してきた飲酒無灯火の対向車と正面衝突。エディの車は全壊、運転席にいたエディは、全身骨折の瀕死の重傷を負った。結局、9カ月の入院加療を含む全治14カ月の大けがで、人気絶頂時にテレビ出演を中断せざるを得なくなった。

「9カ月の入院中はほぼ毎日、バスでゴールドコーストからブリスベンの病院に通ったの。朝8時のバスに乗って、帰宅するのは夜7時。でもね、私がエディの妻だってみんな知ってるから、いろいろな人にとても良くしてもらったのよ。14カ月後にテレビに復帰した時はね、今思い出しても……」と語るエナミの両目が潤む。

 さて、気になる父親の勘当は後に解かれたのだろうか。結婚7年後に初めて帰国した折、羽田空港で乗機のタラップに出てすぐに、眼下の出迎えの人びとの中に懐かしい父親の顔を捉えた。「姉が父に『ほら、あそこにいるわよ』って指差したら、父は髪をアップにして日焼けした私がすぐに分からなかったようで。出迎えてくれるなんて思ってもなかったし、会えば怒られると覚悟していたから『よく帰って来た』って言われて、嬉しかた」。 7年越しの親子の笑顔と涙の邂かいこう逅の後、父は常にエナミの心の支えとなり続けた。

日系社会の生き証人


 最愛のエディが世を去ってから35年、他に身寄りもなく異郷で1人生き抜いてきた。エディの死後、諸々を整理し終えて1年が経つと、ゴールドコーストの日系社会が彼女のことを放ってはおか
なかった。

 50代半ばにして初めて勤めに出たエナミは、生来の人当たりの良さや快活なキャラクターで日系旅行会社、オパール販売業で大活躍。ゴールドコースト日系社会の栄枯盛衰のそのほとんどを当事者として体感してきた。

「私たちがシドニーで結婚したころは、戦争花嫁さん以外にはほとんど日本人なんかいない時代。後で聞けば、戦争花嫁以外で、オーストラリア国内で日本人がオージーと結婚したのは、戦後ほぼ初めてのケースだったかもしれないそうで。結婚前に、『日本の親に反対されているのに結婚して大丈夫かな』ってメルボルンの領事館に相談しに行ったら、総領事さんに『日豪親善のためにもぜひ結婚して』って頭下げられたのよ(笑)」

 改めて気付かされた。筆者が話を聞いた老女は、大陸からの引き揚げ、戦後の激動の次代を日豪両国で過ごした当地の日系社会のまさに生き証人なのだ。今は朗らかな笑顔で語れども、人知れず苦労があったに違いない。

 異国での生活が今ほど快適ではない時代。今より強い差別や偏見もあったはずだ。そんなことも、笑い話や思い出話に昇華できるその鷹おうよう揚さが、63年もの長きにわたり異郷で生きてこられた秘訣
のかもしれない。

 手前味噌ながら、今回のストーリーで、彼女のような先達がいてこそ、当地の日系社会の今があることに若い世代に改めて気付いて欲しい。同胞の先達をリスペクトし、彼らに光を照らし、その事績を顕彰する――当地の日系社会がもっと早くに為すべきながら、今の今までやらずにきた大事なこと。本記事が、当地の日系社会全体にその大事なことを改めて思い起こさせる縁になれば、それこそ書き手冥利に尽きる。

 エナミに取材の最後に「幸せな人生ですか」と聞いた。

「そうね、結構、いや、とても楽しい人生を送れているわよ」

 エナミさん、どうか、いつまでもお元気で

披露宴でのエドワーズ夫妻。シドニーのキングス・クロスにあったスキヤキ・ハウスを借り切った
外国人、しかも24歳も年上父には、結婚したら勘当するって言われてたの

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