タスマニア再発見
No.125 ロス村の「Ross Village Bakery」
文=千々岩健一郎
今まで取り上げていなかったが、ホバートから少し離れたロスという村に、日本人にはよく知られたパン屋さんがある。映画『魔女の宅急便』のモデルになったという「ロス・ベーカリー・イン(Ross Bakery Inn)」だ。ロスはちょうどホバートとロンセストンの間、ヘリテージ街道の宿場村にあり、同店は宿屋も備えているのでこの名前がある。
本当にあのアニメ映画のモデルだったのか、プロダクションに聞いてもその真偽は定かではない。しかし、現実的には25年前ごろから毎年2,000人以上の日本人が訪問し、同店の記名帳に名前を残している。当初はオーナー自身が何のことか分からず、後に訪問した人たちが映画のビデオや本を送ってくれ、そのことを知ったという。アニメのシーンと比較しても、必ずしも似ているわけではないが、唯一、今でも100年以上前からある薪のオーブンでパンを焼いているという点がそれらしい。
にもかかわらず、ロス村を訪問しパン屋さんを訪ねた人びとはそれなりに満足しているようだ。おそらくそれは、この村の外界と一線を画す雰囲気と、同店の佇(たたず)まいにあるのかもしれない。
ロス村のメイン・ストリートには古いニレの並木があり、季節ごとにその姿を変化させる。店の外には幾つかのテーブル席が設けられ、ニレの木陰の下で食事やお茶が楽しめる。周辺には、19世紀初頭の家々が残り、入植当時の雰囲気を残しているのだ。
同店では1日に一度早朝に釜に火を入れて、パイ、ペイストリー、パンなどを順に焼き上げていく。一度に最大300個のパンを焼くことができるこのオーブンは、通常の場合ほとんど1日一度の火入れで賄うことができるのだ。
同店の人気アイテムの1つはバニラ・スライスだ。程良い甘さのカスタード・クリームとパリッと焼き上がったペイストリーのバランスがすばらしい。個人的には同店のエクルズ・ケーキ(Eccles Cake)もお薦めだ。ペイストリー生地の中に、干したカラントをたっぷり詰めて焼き上げた物で、他ではあまり見かけない優れ物だ。古いオーブンと同様に、製品その物も英国伝来の伝統的な方法で作り上げたものと言える。
訪問する観光客の中には、店内と古いオーブンだけを見て帰る人もいるようだが、ここはあくまで通常に営業しているパン屋さんなので、できれば時間を取って、同店自慢のエスプレッソとケーキでティー・タイムを楽しんで頂きたい。ニレの木陰のテーブルにのんびり座っていると、食べ残りのパンくずにスズメたちが近寄ってくる。鄙(ひな)びた村のゆっくりと流れる時間を楽しみたい。
千々岩 健一郎
1990年からタスマニア在住。1995年より旅行サービス会社AJPRの代表として、タスマニアを日本語で案内する事業の運営を行うと共に、ネイチャー・ガイドとして活躍。2014年代表を離れたがタスマニア案内人を任じて各種のツアーやメディアのコーディネートなどを手掛けている。北海道大学農学部出身。