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「二度と悲劇を繰り返さないために」ボブ・グリフィスさんインタビュー

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Interview ローカル人インタビュー

オーストラリアの日系コミュニティーで活躍するローカル人に話を伺った。

第8回 ボブ・グリフィスさん
Bob Griffiths

二度と悲劇を繰り返さないために

1944年8月5日、日本兵捕虜の大量脱走事件「カウラ・ブレイクアウト」が起きたNSW州中部カウラ。日本兵231人、豪州兵4人が死亡した悲劇を教訓に、戦後、日本人墓地や日本庭園、桜並木などが整備され、日本と豪州の和解を象徴する町となった。その背景には、和解と平和を願う町の人たちの熱意と努力があった。今年5月、対日理解の促進に寄与したとして、日本の旭日双光章を受勲したボブ・グリフィスさん(カウラ日本庭園・文化センター会長)もその1人だ。(聞き手:守屋太郎)

グリフィスさんは終戦の3年後にシドニーで生まれ、豪税関局(現在の連邦内務省税関・国境警備局)に19年間勤務した。84年にシドニー空港税関の主席検査官を退官した後、小さなスーパーマーケットを手に入れ、カウラに移り住んだ。それまで、日本と豪州の歴史に向き合うことはなかったという。

――幼い頃、人びとの間にはまだ戦争の生々しい記憶が刻まれていたと思います。カウラ事件については知っていましたか?

学校でカウラ事件について教わることはなく、何も知りませんでした。オーストラリアでも事件のことが広く知られるようになったのは、比較的最近のことなのです。

戦後間もない頃、かつて敵国だった日本に対して、人々は良い印象を持っていませんでした。特に退役軍人やその家族は、日本人のことを悪く思っていました。タイなどの捕虜収容所でオーストラリア兵が日本軍にひどい扱いを受けたことも、よく知られていました。私自身も日本人や日本文化についての知識がありませんでした。広島や長崎に原子爆弾が落とされたことは知っていても、どんなに激烈な被害があったか、何も分かっていなかったのです。

日本が復興するにつれて、数多くの日本製品がオーストラリアに入ってきましたが、日本の製品に対して、憤りを感じていた人は多かった。当時と比べると、現在では対日感情は劇的に変わりましたね。日本食や日本文化の人気が高まり、大勢のオーストラリア人が文化やスキーを楽しむために日本を旅しています。

――退職して、地方の小さな町、カウラに住もうと思ったのはなぜですか?

税関の仕事を長く務めたので、そろそろ自分自身の事業を始めようと思ったからです。子どもを育てるのに環境が良い田舎に引っ越そうという考えもありました。何か自分でできる事業がないか、さまざまな田舎の町を見て回りました。カウラを選んだのは、たまたまビジネスの機会を見つけたからです。今振り返ると、私の人生で最善の決断だったと思います。

カウラ事件や日本との関係については、84年に移り住んでから初めて知りました。当時、既にカウラと日本は強い絆で結ばれていました。カウラ日本人墓地は64年に整備され、カウラ日本庭園も79年に開園していました。カウラ高校と東京・成蹊高校の「カウラ・成蹊留学交流プログラム」は70年に始まり、東京農業大学のOBで構成する男性合唱団「コール・ファーマーズ」のカウラ演奏旅行(2年に一度)も77年から続いていて、私が住む前から長い交流の歴史がありました。

カウラでコンサートを行う東京農業大学OBの男性合唱団「コール・ファーマーズ」。演奏旅行では、カウラと同様の事件が起きたニュージーランドのフェザーストンも訪れている。フェザーストンでは1943年2月25日、捕虜収容所で日本軍捕虜が蜂起し、日本兵48人とニュージーランド人1人が死亡した(Photo: The Cowra Guardian)
カウラでコンサートを行う東京農業大学OBの男性合唱団「コール・ファーマーズ」。演奏旅行では、カウラと同様の事件が起きたニュージーランドのフェザーストンも訪れている。フェザーストンでは1943年2月25日、捕虜収容所で日本軍捕虜が蜂起し、日本兵48人とニュージーランド人1人が死亡した(Photo: The Cowra Guardian)

ビジネスのかたわら、社会貢献にも尽力した。慈善団体「カウラ・ロータリー・クラブ」など要職を歴任し、96年から「カウラ成蹊留学交流委員会」の会長を務め、「コール・ファーマーズ」のカウラ演奏旅行も支援した。

――経営者として忙しい毎日を送りながら、慈善事業にも力を注いだのはなぜですか?

人口約1万人のカウラのような田舎の小さな町では、助け合って生きることが自然なことなのです。都会では考えられないかもしれませんが、地域社会の皆が自分の町に誇りを持っています。お互いのこともよく知っていて、町を歩けば100人の知人と立ち話をしますよ(笑)。

留学生の交流やコール・ファーマーズの演奏旅行に携わるようになったのは、故アルバート・オリバー元市長を始めとする先人たちの影響が大きかった。オリバーさんは大戦中、ニューカレドニアで日本軍と戦い、恐ろしい体験をしました。除隊後、「悲劇を繰り返さないために、できる限りのことをしたい」と、日豪の和解に情熱を注ぎました。カウラ退役軍人会(RSL)の会長となったオリバーさんは、仲間と共に荒れ果てていた日本人墓地の雑草を刈って清掃を始めました。その後、日本人墓地の整備を進め、カウラ日本庭園の設立に力を注ぎました。

「和解と平和を築くのに一番良い方法は、若者たちが互いの文化を体験して友情を育むことだ」と考え、留学交流プログラムを始めたのもオリバーさんでした。私もロータリー・クラブで誘われたのをきっかけに、日豪交流の活動にのめり込んでいきました。ロータリー・クラブの会長を務めた96年に、前任者から留学交流委員会の会長を引き継いでくれと言われ、快く引き受けました。

日豪和解を象徴する施設の1つとなった日本庭園で(Photo: The Cowra Guardian)
日豪和解を象徴する施設の1つとなった日本庭園で(Photo: The Cowra Guardian)

――以来、20年以上に渡って日本とオーストラリアの和解と友好に力を注いできました。その活動から得たことは何ですか?

私にとって一番うれしかったのは、カウラ成蹊留学交流プログラムで若い人たちと接したことです。カウラの生徒たちは1年間、東京で過ごすと成長して大人になって帰ってきます。日本からカウラに来た生徒たちは、1年の間に成長して経験から多くのものを学んでいきます。双方のホスト・ファミリー同士が思い出を共有し、長年にわたって交流を続けています。

コール・ファーマーズは2年に一度、オーストラリアとニュージーランドを訪れ、コンサートを開いています。カウラでは戦没者墓地で美しい歌声を披露し、戦没者を追悼します。コンサートの最後には皆が肩を組んで涙を流し、再会を誓います。カウラ成蹊留学交流プログラムは寄付金に支えられていて、コール・ファーマーズの団員たちも支援してくれています。そのお陰で、生徒たちの航空券や保険料をまかなうことができ、親の経済的事情に関わらず生徒たちを日本に送り出せているのです。

私はカウラ・ロータリー・クラブの姉妹クラブである愛知県の「稲沢ロータリー・クラブ」にもこれまで3度訪問し、相互の交流を続けています。留学交流プログラムやコール・ファーマーズ、ロータリー・クラブなどの活動を通して、たくさんの友人と知り合うことができました。

――2016年からカウラ日本庭園・文化センターの会長を務めています。今年5月には長年の日豪交流への貢献が評価され、旭日双光章を受勲しました。

とても驚きましたが、非常に名誉なことだと感じました。でも、先人たちの努力がなければ、決して勲章をいただくことはなかったでしょう。オリバーさんをはじめとする先人がやってきた偉業の上に、私は仕事を積み重ねてきただけです。

オリバーさんたちの取り組みの跡を継ぐことができたことは、とても光栄です。和解と平和の活動を通して日本とオーストラリアにたくさんの友人ができ、非常にやりがいのある経験をさせてもらったと思います。

私の目標は、先人から私が引き継いだ遺産を、次の世代にしっかりと伝えていくことです。歴史を繰り返さないために、第2次世界大戦中にカウラで起きた悲惨なストーリーが、決して忘れ去られないようにしなければいけません。私はカウラのお陰でこれまで幸せな人生を送ることができました。そんなカウラの町に恩返しができるとすれば、日本との特別な絆が今後も失われなれず発展していくよう、努力していくことだと思います。

オーストラリアを訪れた日本の方々、特に若い人たちは、ぜひカウラまで足を伸ばして欲しい。カウラの歴史と日本と育んできた特別な絆について、知ってもらいたいですね。

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