日本や世界の経済ニュースに登場する「?」な話題やキーワードを、丁寧に分かりやすく解説。
ずっと疑問だった出来事も、誰にも聞けなかった用語の意味も、スッキリ分かれば経済学がグンと身近に。
解説・文=岡地勝二(龍谷大学名誉教授)
第71回 アメリカ留学の意義について―アメリカ留学事始め―
「アメリカ留学」という言葉からいろいろな響きが感じられることと思います。留学という言葉は、外国に”留まって学問を修めること”とも言われています。学問を修めるだけなら留学という言葉を使わずに修学でもよかったのに、とさえ感じられます。しかし、なぜか日本人には「留学」という言葉が醸し出す響きにある種の畏敬(いけい)の念をも抱くことさえ稀ではありません。これまで日本の社会で多くの人びとが留学を経験され、それを土台に内外でさまざまな分野で活躍されてきました。
私自身もアメリカの大学で学びたいという念を大学に入学してから抱き続け、さまざまな方法を見つけようと努めましたが、大学4年生の時、ロータリー・クラブの奨学生として、アメリカのジョージア州にあるジョージア大学で学ぶ機会を得ました。その奨学金の支給期間は1年間と限定されていたので、1年間だけジョージア大学で学びました。
しかし幸運にも、大学を卒業してから、ジョージア大学の大学院で修士課程を、更に、後になってフロリダ州立大学の博士課程で学ぶことができました。また、全ての課程を修了してからテキサス州のヒューストン大学で「ポスト・ドクター」という仕事をも経験することができました。
したがって、アメリカの大学に比較的長く在籍し、さまざまな経験をしたので、「私のアメリカ大学滞在記」や、アメリカの大学社会の有様についてなどを、今号から数回にわたって綴ってみたいと思います。
アメリカへの第一歩
私にはアメリカへ自費留学できるほどの経済的余裕など全くなかったため、学生時代にアメリカ留学を望んでも、ただの夢物語で終わることも大いにありました。しかし、偶然にも何かの機会に、ジョージア州のロータリー・クラブがアメリカ留学の奨学生を募集しているということを知り、早速ロータリー・クラブ財団に申し込みました。
その時、条件として、英語の能力証明書の提出を求められました。試験はアメリカ大使館並びにアメリカ文化センターで受けなさいという連絡があり、大阪のアメリカン・センターへ英語能力検定試験を申し込みました。現在は、全世界的に英語能力試験制度がありますが、1960年代の中頃にはそのようなシステムはなく、アメリカン・センターで英語能力テストを受けるのが一般的でした。そこでのテスト内容は、英文法問題と、「私とアメリカ」というようなテーマで英語で論文を書くのが試験内容でした。
私は大学へ入学すると同時に、日々の生活のために学習塾で中学生と高校生に英語の教師として必死の思いで週3日、1日3時間教えていました。その仕事のおかげで、いわゆる英文法にかなり強くなり、アメリカン・センターの語学試験に無事合格できました。また、英作文のテストも無事にこなし、一応テストには合格。アメリカン・センターの担当者からも「良くできていたよ」とお褒めの言葉を頂き、とてもうれしかったことをよく覚えています。
何しろ、生きるために生徒たちに必死に英語を教えるという仕事が、思わぬ所で役に立つという羽目となりました。私はこの時、日々の厳しくて辛い経験はきっとどこかで生きるものだという教えを体得しました。
さて、ジョージア大学への留学は大学4年生の時に決定し、1965年8月にアメリカへ渡航することになりました。当時、アメリカの大学へ留学するということは極めて珍しく、多くの友人、知人がアメリカなどに行って大丈夫かと心配してくれました。しかし、私は自信など少しもありませんでしたが、せっかく全額給費生に合格したのだから何としても行こう、と1人で決心しました。
ジョージア大学での勉学事始め
9月の上旬になるとジョージア大学では新学期が始まり、私は2つの講義を取るように指導を受けました。ジョージア大学に着き新学期が始まると、留学生向けアドバイザーが付くことになり、その人が親切に受講の指導をしてくださるのです。
私は、日本の大学では4年生で専門科目を履修していたので、ジョージア大学でも専門課程の講義を取ることになりました。その内の1つは経済原論の科目で、そしてもう1つが、とても有名なデビット・M・ライト教授の「比較経済体制論」という講義でした。ライト教授はハーバード大学出身で、よく知られた経済思想家、シュンペーターの愛弟子でした。そして日本びいきでもありました。
私は教授が話す5分の1ほどしか英語が理解できず、ほとほと困りました。それでも、先生が話す単語を1つずつノートに書き綴り、その単語を基に教科書の文章と結び付け、ある一定の講義ノートを作り、週に1度先生に「先生の講義の趣旨はこれですか?」と質問に研究室を訪ねました。すると、先生はとても丁寧に、「うんうん。これで良い、ついでに教科書と参考書のここをよく読んでまとめておきなさい」と教えてくださるのです。
私は先生の指導を忠実に実行しました。するとどうでしょう。学期末テストに、その教えに類似した問題が出ているではありませんか。私は、先生の教えをそのまま答案に書きました。とてもうれしかったです。これで間違っても「F」(不合格)にはならない、と1人で安心していました。
間もなくして、最終評価が発表されました。成績は各先生方の研究室のドアに張り出され、私は恐る恐る発表を見ました。すると、「K. OKACHI A」という文字が目に入りました。私は何と「A」を頂いたのです。
私はうれしさのあまり、やったぞ、とばかりにキャンパスを走りまくりました。これで成績不良につき強制帰国という辛い羽目になることはない、それどころか、講義で「A」をもらったのです。天にも昇る気持ちでした。また、私は一生懸命に努力すれば必ず報われるという気持ちを抱きました。
このように、私のジョージア大学での出発点は順調な滑り出しでした。そして私が得た教訓は、骨身を惜します努力すれば救われるということでした。
日本からぽっと出てきた英語が不自由な留学生の私でしたが、多くの友達、良き先生方に恵まれて、比較的順調な留学生活をスタートすることができました。
私が身をもって得た体験は、学問に近道はないということでした。たとえどんな難解な問題でも何度でもトライすることによってその解は見えてくるものだということを実感しました。このようなささやかな経験を元に、それ以降も、大学の教師となっても同じような努力を積み重ねてきました。そして学生たちにも努力の大切さを説くという仕事してきました。
解説者
岡地勝二
関西大学経済学部卒業。在学中、ロータリークラブ奨学生としてジョージア大学に留学、ジョージア大学大学院にてM.A.修得。名古屋市立大学大学院博士課程単位終了後退学。フロリダ州立大学院博士課程卒業Ph.D.修得。京都大学経済学博士、龍谷大学経済学教授を経て現在、龍谷大学名誉教授。経済産業分析研究所主宰